鎌倉幕府と朝廷の関係はどのようなものだったのか
- 2022/08/19
治承・寿永の内乱(源平合戦)を勝ち残った源頼朝らによって開かれた鎌倉幕府は、「日本で初めての武家政権」とも言われます。しかし ”初めて” であるが故に、それが「国内でどのような立ち位置だったか」は非常に難しい問題で、研究者の間ではこれまで膨大な議論が交わされてきました。
今回は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれる鎌倉幕府の草創期に焦点を絞り、当時の朝廷と幕府の関係について、詳しく見ていきましょう。
今回は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれる鎌倉幕府の草創期に焦点を絞り、当時の朝廷と幕府の関係について、詳しく見ていきましょう。
源平合戦における源頼朝の立場
合戦当初は罪人だった源頼朝
治承4(1180)年、伊豆国で流人生活を送っていた源頼朝が挙兵します。当初こそ苦戦するものの、頼朝の元には続々と武士が終結し、平家も無視できない存在になっていきました。とはいえ、この時点で頼朝は名実ともに罪人(謀反人)。正規軍は平家であり、頼朝率いる勢力はいち反乱軍の範疇を超えませんでした。しかし、反乱軍だからこその「強み」を持っていました。それは倒した敵の所領を奪い取って、味方に与えることです。
本来、所領の没収や給与は朝廷の権限です。平家のように正規軍の司令官になったとしても、部下に勝手に所領を与えることはできませんした。しかし頼朝らは反乱軍だったので、そんなことに縛られません。戦争中の臨時措置ではあるものの、倒した相手の所領没収、味方への給与をある程度自由に行うことができました。
味方に所領を与え、立場を安堵する代わりに、自ら(鎌倉殿)のために働かせる。頼朝サイドでは、後の「御恩と奉公」のようなシステムが、源平合戦の中でできあがっていったのです。
反乱軍から脱却し、国家公認の軍事組織へ
このシステムは「反乱軍が勝手にやっている」ことなので、朝廷サイドからすれば当然非公式のもの。しかし、有名な「寿永二年十月宣旨」によって状況が変わります。これにより、頼朝は罪人の立場を脱し、東国における事実上の軍事・警察権を認められました。つまり、国から正式な軍事組織として認められ、上記のシステムも国家公認のものとなるのです。近年では、木曾義仲も味方に安堵状を発給していたことが分かっています。頼朝以外の反乱勢力も、それぞれが独自に軍事組織を築こうとしていたようです。意外に武士たちはずる賢い面がありました。「働きが自分たちの利益(所領獲得)に直結する」システムは、当時の武士にはかなり斬新なものに映ったのかもしれませんね。
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頼朝、朝廷と幕府の協調関係を築く
頼朝上洛と朝廷との交渉
長く続いた戦乱が終結し、世が束の間の落ち着きを取り戻すと、頼朝は朝廷との交渉のため、ようやく上洛に踏み切ります。幕府と朝廷の関係をここではっきりさせておく必要があったのです。頼朝は内乱中も朝廷と綿密に連絡を交わしており、自分たちの立ち位置を模索し続けていました。建久元(1190)年に最初の上洛を果たした頼朝は、自らを「朝(ちょう)の大将軍」と称して、権大納言・右近衛大将に任官します。翌年の建久新制でこれが明文化された結果、「朝廷を中心とした国家体制の中で、軍事・警察部門を鎌倉幕府が担当する」という体制が形作られました。
新興組織、しかも元々反乱軍であった頼朝らにとって、「朝廷とどんな関係を結ぶか」は重要課題でした。長きにわたる戦乱の中、朝廷との関係を模索し続けた彼らは、結果として「反乱軍としての自律性をある程度保ったまま、軍事組織として国家に認められる」という、ある意味で前代未聞のことを成し遂げたのです。
朝廷側の対応
躍進を続ける武士たちの姿を、朝廷の貴族たちは苦々しく思っていたようなイメージがありますが、意外なことに鎌倉時代の幕府と朝廷の関係(公武関係)は協調が基本でした。頼朝は、摂政の九条兼実(くじょうかねざね)や、源(土御門、つちみかど)通親ら有力な貴族と連携し、公武間の協調関係を構築・維持しました。
特に通親は、頼朝の急死に際しても幕府側に立った対応を見せています。頼朝の死による混乱に乗じて、幕府の解体を目論むこともできたでしょう。朝廷側がそれをしなかったのは、通親ら朝廷首脳部が「幕府権力の二代頼家への円滑な移行を望んだ(川合2013より)」からだと考えられています。公武協調は朝廷側も望んでいたことのようです。
頼朝の跡を継いだ頼家も、通親と近い大江広元を介して朝廷との連携を維持しました。通親の死や、実朝の擁立後も、この公武協調体制は揺るぎませんでした。
「承久の乱」で関係破綻
後鳥羽上皇と将軍実朝
後白河法皇の死後、治天の君(ちてんのきみ。院政において政務の実権を握った天皇、上皇のこと)として君臨した後鳥羽上皇は、上記の公武関係を前提とした独自の権力を築きます。もともと後鳥羽には直属の武士たちがいましたが、徐々に御家人たちもその傘下に加えていきました。これは幕府からの寝返りを勧めるものではなく、将軍実朝の許可のもとで進められていたようです。また、後鳥羽は実朝と和歌を通じて交流しており、朝廷と幕府は良好な関係を築いていました。子のない実朝の後継に後鳥羽の皇子を立てる構想もあったほどです。しかしある時、それを揺るがす大事件が発生します。実朝が鎌倉で暗殺されたのです。
公武関係の大きな転換点となった「承久の乱」
建保7(1219)年正月の実朝暗殺は、公武関係に深刻な影響を与えました。懇意にしていた実朝が暗殺されたことで幕府に不信感を募らせた後鳥羽上皇の心は、徐々に討幕へと傾きはじめます。そして承久3(1221)年、後鳥羽は執権・北条義時の追討命令を発して討幕の兵を挙げました。上述した公武関係の悪化はもちろん関係していますが、実は後鳥羽が兵を挙げた具体的な理由は明らかになっていません。そもそも目的も討幕ではなく、義時の追討という見解もあり、後鳥羽挙兵の真相は不明瞭なままなのが現状です。
いずれにせよ良好だった朝廷と幕府の関係は一気に対立へと転じ、朝廷 vs 幕府という最悪の戦いの火蓋が切られたのです。
後鳥羽挙兵の知らせを受けた鎌倉幕府は、北条泰時・時房率いる軍勢を京へ派遣、わずか1月ほどで上皇方の撃破、京の占領に成功します。勝利した幕府は、乱の首謀者である後鳥羽らを排除し、治天の君に後高倉を、天皇に後堀川を擁立。以降、幕府は皇位継承にも関与することになります。
再び協調の道を歩む
最高権力者である治天の君の処罰、幕府による皇位継承への関与は、前代未聞の出来事でした。当時の人々、特に貴族たちは大きな衝撃を受けたことでしょう。当初こそこの事態に反感もありましたが、鎌倉幕府との協調関係を重んじた後嵯峨天皇の即位後は、徐々に沈静化していきます。異様な事態でも、それが常態化すれば気にならなくなる、そんなところでしょうか。承久の乱前後で一瞬崩れた朝廷と幕府の関係でしたが、どうにか再び協調の道を取り戻しました。以降、この「幕府やや優位の協調関係」が、しばらく継続することになるのです。
【主な参考文献】
- 川合康「治承・寿永の内乱と鎌倉幕府の成立」(『岩波講座日本歴史第6巻 中世1』岩波書店、2013年)
- 高橋典幸「鎌倉幕府論」(『岩波講座日本歴史第6巻 中世1』岩波書店、2013年)
- 田中大喜編著『図説 鎌倉幕府』(戎光祥出版、2021年)
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