「八田知家」鎌倉殿の13人のひとり。源頼朝の信頼を受けて常陸国守護となった小田氏の祖
- 2022/05/31
八田知家(はったともいえ)は常陸国新治郡八田を本拠とした武将で、頼朝に早くから仕え、信頼を得て常陸国守護に任ぜられました。「戦国最弱の武将」と呼ばれる戦国時代の武将・小田氏治は知家の子孫です。
八田知家の出自
八田知家は、藤原北家の関白道兼の子孫を称する常陸国の宇都宮(八田)宗綱の子とされていますが、一説には源義朝の子であるともいわれます。兄には後白河院の北面の武士を務めた宇都宮朝綱が、姉妹には頼朝の乳母を務めた寒河尼(結城朝光の母)がいます。姉妹の寒河尼が頼朝の乳母であったこともあってか、知家は早い時期から頼朝の挙兵に従って緒戦を戦っています。源平の戦いでは頼朝の異母弟の源範頼に従って戦い、その後の奥州合戦では東海道大将軍として戦いました。
多気義幹を罠にはめる
建久4(1193)年5月28日、『曾我物語』の主人公で知られる曾我祐成(すけなり)・時致(ときむね)の兄弟が、父・河津祐泰(すけやす)を殺した敵・工藤祐経(すけつね)を殺したという事件(曾我兄弟の仇討ち)が起こりました。駿河国の富士野(現在の静岡県富士宮市)で起こったこの事件の知らせを受けた鎌倉は大騒ぎでした。『吾妻鏡』6月5日条によれば、知家はこの騒動の中、同じ常陸国の武将・大掾氏の多気義幹(たけよしもと)を罠にはめることを思いつきます。
知家は文治5(1189)年に常陸国守護に任ぜられていましたが、常陸国では常陸大掾を世襲した大掾氏の勢力が依然として強かったため、知家はどうにかしてそれを手に入れたいと考えていたのでしょう。
知家は「八田知家が多気義幹を撃とうとしている」といううわさを流し、義幹が警戒するように仕向けました。すると義幹はまんまと知家の思惑どおり警戒を強めました。さらに知家が「富士野で事件が起こったと聞いたので、一緒に行きましょう」と使いをやると、義幹は一層警戒して同道しませんでした。御家人たちが曾我兄弟の事件で鎌倉に集まる中で自身の城に立てこもり、御所に参上しなかったのです。
知家は「義幹に謀反の疑いあり」と頼朝に訴え、騒動の中で兵を集めて城に立てこもり、御所に参上しなかったことを理由に義幹を糾弾しました。義幹は申し開きもできず、所領を没収されてしまいました。
こうして義幹をはめた知家は大掾氏の勢力を削ぐことに成功したのです。
十三人の合議制のひとり
建久10(1199)年正月に頼朝が亡くなると、第2代将軍に頼朝の嫡男・頼家が立ちました。若く未熟な頼家の専制をおさえるために始まったといわれる「十三人の合議制」。知家はそこに名を連ねるほどの有力な御家人となっていました。頼家・実朝の時代には梶原景時の失脚と死、阿野全成の死、比企氏の滅亡、畠山重忠の乱、北条時政の失脚……というように有力御家人同士の争いや失脚が相次ぐ内乱の時代でした。
知家もその出来事に関わっています。建仁3(1203)年、阿野全成に謀反の疑いがあるとして、頼家は全成を逮捕し、知家に命じて6月23日に下野国で処刑させたのです。
その後の知家は目立った活躍もなく、第3代将軍・実朝が暗殺された前年の建保6(1218)年に亡くなりました。
知家の子孫
知家の子孫はその後も常陸国の有力な豪族として続き、嫡男の知重が小田氏を、その弟たちも所領の地名から伊自良氏(有知)、茂木氏(知基)、宍戸氏(家政)、田中氏(知氏)などを名乗り、それぞれ繁栄していきました。小田氏と宍戸氏は鎌倉時代の間常陸国の守護を続けましたが、14世紀ごろになると北条氏の勢力に圧されて力を弱めました。ちなみに、戦国時代の武将・小田氏治が小田氏本宗の子孫です。氏治は居城の小田城を何度も落城させた「戦国最弱」の武将として知られますが、それでも知家以来の先祖伝来の城を何度も奪い返すために戦い続けました。
氏治は先祖伝来の土地を守ることこそ自身の使命と考え何度もよみがえり、「常陸の不死鳥」とも呼ばれました。しかしそれに固執したことがあだとなり、所領を没収されて小田氏は滅亡しました。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 『日本人名大辞典』(講談社)
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