『功名が辻』でおなじみの初代土佐藩主!「山内一豊」の家紋とは?
- 2022/03/04
「内助の功」という言葉はもう古いというご意見もあるかと思いますが、夫婦が力を合わせて生きていくことの重要性は時代を超えて普遍的なものといえるでしょう。
戦国時代を語る際には武将の槍働きが注目されがちですが、それを支えた妻たちの戦いもありました。そうしたことに思いを馳せたとき、司馬遼太郎の名著『功名が辻』が思い起こされます。これは豊臣の小大名からやがて土佐藩の初代藩主に上り詰めた「山内一豊(やまうちかずとよ/かつとよ)」を主人公としたもので、特に妻である「千代」の機転と知恵が印象的に描かれています。
作中ではどちらかというと千代の方が主人公らしい向きもあるのですが、一豊も戦国の世での難しい舵取りを誤らず、見事に家中を存続させる手腕をもった武将でした。今回はそんな夫婦の力を強く印象付ける、山内一豊が用いた家紋についてみてみましょう!
戦国時代を語る際には武将の槍働きが注目されがちですが、それを支えた妻たちの戦いもありました。そうしたことに思いを馳せたとき、司馬遼太郎の名著『功名が辻』が思い起こされます。これは豊臣の小大名からやがて土佐藩の初代藩主に上り詰めた「山内一豊(やまうちかずとよ/かつとよ)」を主人公としたもので、特に妻である「千代」の機転と知恵が印象的に描かれています。
作中ではどちらかというと千代の方が主人公らしい向きもあるのですが、一豊も戦国の世での難しい舵取りを誤らず、見事に家中を存続させる手腕をもった武将でした。今回はそんな夫婦の力を強く印象付ける、山内一豊が用いた家紋についてみてみましょう!
「山内一豊」の出自とは
山内一豊は天文14年(1545)、尾張国羽栗郡(現在の愛知県一宮市木曽川町あたり)の黒田城で、岩倉織田氏の重臣・山内盛豊の子として生を受けました。一豊が15歳の頃、尾張国内の織田氏同士の内紛により父が討ち死に。一族は離散し、流浪の身となった一豊は各地を転々とし様々な家中に仕えます。織田信長の配下となったのは永禄(1568~70)の末年から元亀年間(1570~73)の頃とされ、秀吉の家人になったと考えられています。妻をめとったのは元亀年間の頃と考えられ、前述の小説ではその名を「千代」としていますが「まつ」とする資料もあり定かではありません。
一豊は秀吉の配下として着実に出世し、天正12年(1584)には近江長浜の領主として一城の主となります。以降も重要な作戦のほぼすべてに従軍し秀吉の覇業を支えましたが、あくまでも豊臣の小大名という立場は変わりませんでした。
しかし慶長5年(1600)、関ケ原合戦に向けて緊迫する情勢のなか、当時の居城であった遠江国(現在の静岡県西部)掛川城を明け渡して家康への合力を表明。この功績から一豊は戦後に土佐国を与えられて初代藩主となります。この選択には妻の助言が大きな影響を与えたと伝えられていることは、あまりにも有名ですね。
長宗我部氏の残党が健在だった土佐の領国経営には苦心した一豊でしたが、その血脈は幕末まで土佐を統治することとなります。慶長8年(1603)9月20日、数え年61歳にて天寿を全うしました。
山内一豊の紋について
一豊が用いた家紋としては後に「土佐柏(とさがしわ)」と呼ばれる、いわゆる三つ柏の紋が有名でしょう。一豊の時代では葉の部分が太く描かれていましたが、時代が下るにつれて徐々に細くなっていき、葉脈の表現を簡略化したような特徴的な形状へと変化しました。また、「白黒一文字」という紋も伝わっています。これは黒地に白抜きの「一」、そしてその下に縁だけを白抜きにした「一」の字を配したもので、一を「かつ(勝つ)」と読ませて縁起を担いだとされています。白字と黒字それぞれの一があるのは「陽と陰」を表現しており、「表でも裏でも勝つ」という意味が込められました。
このうちのどちらが定紋なのかは判明していませんが、さらに秀吉から拝領した桐紋も「土佐桐」として使用しています。
他には一豊一代限りの紋として「四頭立浪(よんとうたつなみ)」が知られており、山内氏は公式である上記3種に加えて多くの紋を用いたとされています。
「三つ柏」の紋の由来
山内氏が家紋として三つ柏の図案を用いるようになったのは、先祖のエピソードに由来しているといいます。ある時、山内氏の祖先が戦の際に指物の代わりとして柏の枝を用い、生還したときに三枚の葉が残っていたことにあやかったというものです。武将の家紋や旗印にはこうした故事に由来するものも多く、三つ柏の紋には戦を生き延びて一族を存続させるという、心からの願いが込められているといえるでしょう。
ちなみに柏の葉は古来、神への供物を捧げるための器として神聖視されてきました。食物を盛りつける食器としての位置付けは非常に古く、宮中で調理を司る職を「膳夫(かしわで)」というのもこれに由来しています。
おわりに
山内一豊とその妻をめぐるエピソードは、様々なメディア作品を通じて浸透しています。そのすべてが史実かどうかは判明していませんが、いずれにせよ戦国の世で家中を守るため苛烈な決断も辞さないという一貫した姿勢をもった夫婦だったといえるのではないでしょうか。女性の記録が極端に少ない戦国の世にあってその事績が伝説となるほどの見性院(千代)もまた、智勇あふれる人物だったことをうかがわせます。平素の一豊は戦国武将らしからぬ温和で上品な人物だったとされますが、戦場では果断で覇気に富んでいたと伝わっています。そうした行動のすべてが、三つ柏に込められた「生きて帰る」という願いをかなえる原動力になったように思えてなりません。
【主な参考文献】
- 監修:小和田哲男『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)
- 大野信長『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』(学研、2009年)
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』(KKベストセラーズ、2014年)
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版)(吉川弘文館)
- 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版)(講談社)
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