「仙北一揆(1590年)」上杉景勝軍の精鋭に徹底抗戦、東北有数の巨大一揆!
- 2022/06/20
豊臣秀吉の天下統一事業では日本各地の有力大名の制圧・吸収が行われ、次いで「太閤検地」と呼ばれる石高制での検地が実施されました。一面では兵農分離をすすめ、土地に関わる中間搾取を撤廃したと評価されるものの、その政策は当初多くの反発を招いたことも知られています。
天下統一の最終段階ともいえるのが東北地方に関わる経営ですが、ここでも領民からの反対運動が起こり、一揆へと発展しています。今回は天正18年(1590)、現在の秋田県あたりに相当する出羽国北部の仙北郡で起こった、「仙北一揆(せんぼくいっき)」についてみてみることにしましょう。
天下統一の最終段階ともいえるのが東北地方に関わる経営ですが、ここでも領民からの反対運動が起こり、一揆へと発展しています。今回は天正18年(1590)、現在の秋田県あたりに相当する出羽国北部の仙北郡で起こった、「仙北一揆(せんぼくいっき)」についてみてみることにしましょう。
合戦の背景
仙北地方の太閤検地を担当した、上杉景勝と大谷吉継
天正18年(1590)、小田原征伐によって相模の後北条氏を制圧した秀吉は、東北である奥羽地方全域に検地の命令を発します。奥羽の諸勢力には小田原への参陣命令を発布しており、これに応じた者には旧領安堵の朱印状を発行しました。ただし新規に豊臣政権参加となった勢力の領地について、形式上は一旦「太閤蔵入地」として直轄し、その上で改めて秀吉からの恩給として拝領することになっていました。
このタイミングで行われたのが太閤検地であり、各地で異なった検地基準を全国統一して「石高制」への移行により旧来に倍する税収をもたらしたともいわれています。しかし在地の領主層からは伝統的な権益を奪うことにもつながったこともあり、頑強な抵抗にあうことも少なくありませんでした。
仙北を含む出羽地方各地の検地は、越後の「上杉景勝」が拝命し、豊臣家家臣の「大谷吉継」を軍監として実施されました。仙北一揆は、この時の太閤検地への反発が起因して勃発した戦闘のひとつです。
戦に至る経緯
仙北地方の検地は8月頃から始まり、9月下旬にはほぼ完了していました。しかし検地による既得権益の喪失や、焼畑や隠田までが課税対象となること等に反対する運動が仙北地方や由利地方で発生。現在の秋田県横手市~湯沢市にあたる、増田・山田・川連の古城に一揆勢が立て籠もるという事態に発展します。その総数は実に2万4千人超ともされる大規模なもので、ただちに鎮圧に向かった上杉景勝軍と交戦。まもなく一旦は平定されています。
しかし翌10月、仙北郡の六郷で大谷吉継配下の役人が検地を実施しようとした時、現地農民の度重なる愁訴が発生しました。これを妨害行為と断じた検地役人は愁訴した農民の3名を殺害、5名を捕縛。この強硬な対応に憤慨した農民たちは大谷家の家臣50~60名を殺害するという報復行動に出ます。このことにより、仙北地方各地で一揆勢が次々と蜂起していくことになります。
これら奥州仕置の結果としての検地では、秀吉朱印状で反対勢力を殲滅してでも断行するようにと、極めて厳しい命令が出されていました。大谷家家臣の行動はこのような指示に従ってのことと考えられますが、領民の大規模な抵抗運動を誘発する事態を招きました。
合戦の経過・結果
小野寺氏領を中心とした土豪層との戦闘
各地で火の手が上がった仙北一揆でしたが、なかでも中心的な役割を果たしたと考えられるのが「鍋倉四郎」と呼ばれる人物です。正確なプロフィールは不明ですが、仙北三郡南部の領主であった小野寺氏の庶流、鍋倉氏に連なる有力者の一人と考えられます。秀吉の小田原参陣命令に対して、小野寺氏は速やかに応召した領主層の一角でした。そんな小野寺氏領での大規模一揆が勃発したことは、当地における内政が錯綜していたことの証拠ともいえるでしょう。
同年10月、鍋倉四郎は現在の秋田県横手市平鹿町に所在した「増田城」に、2000名超という大人数を擁して立て籠もったといいます。
一揆勢が籠もった増田城とは
この一揆の規模の大きさを推し量るため、鍋倉四郎以下の大人数が籠城した増田城についてそのスペックを確認しておきましょう。現在の横手市立増田小学校がその跡地であり、皆瀬川右岸の微高地に設けられた「城館」でした。しかし南北約300メートル・東西約200メートルという方形の縄張りをもつ巨大な城であり、土塁の一部が現在も残されています。
江戸時代の博物学者である「菅江真澄」が当地を訪れた際に増田城のスケッチを残しており、それによるとかつては相当の比高差をもつ土塁と湿地帯を利用した外堀が設けられていたようです。また、西側以外には虎口があり、東側のそれが大手だったと考えられています。
このように、仙北の一揆勢は増田城という巨大な要塞を拠点として、大人数で戦闘にあたったことが理解されます。
上杉軍の精鋭による鎮圧
増田城に籠もる鍋倉四郎以下の一揆勢を攻略するため、同年10月14日に上杉景勝の軍が進発しました。大谷勢は現在の横手市大森に所在した大森城にて待機、景勝以下1万2000騎の旗本が動員され、攻撃を仕掛けました。一揆勢は増田城以外からも出撃し、上浦郡各地から参集した兵力が上杉軍の包囲を試みます。しかし、横手市の浅舞・柳田、湯沢市の山田・川連などの一揆方拠点を順次攻略され、殲滅戦の様相を呈する激戦が繰り広げられたと考えられます。
一揆勢は1600に迫る首を討ち取られ、上杉軍も死者200以上・負傷者500以上という凄惨な結果となっています。
そもそも「旗本」とは親衛隊のニュアンスをもった部隊であるともいえ、上杉軍は一揆勢との戦闘に精鋭をもってあたったとも言い換えられます。それだけ事態を重く見ていたことの証拠ですが、仙北地方のすべての集団が一揆化したわけではありませんでした。
たとえば中郡の本堂氏や、「由利十二頭」の名でも知られる由利郡の豪族連合は、いずれも一揆鎮圧の軍として参戦しています。
こうして双方に甚大な被害を出した仙北一揆は鎮圧され、増田城には上杉家家臣で後に下野西方藩の初代藩主となる、「藤田信吉」が城将として入りました。大谷勢が守備した大森城には、押収された武器・武具の類や一揆方の人質らが収容されたといいます。
戦後
仙北一揆が発生した地域の領主が小野寺氏であり、小田原参陣命令にはいち早く従った勢力であったことはすでに述べました。本来ならば旧領は安堵されるという待遇のはずでしたが、自領内での一揆発生の責任を咎められ、上浦郡約4万7000石のうち、およそ3分の1を召し上げられるという処遇を受けました。その結果、湯沢・増田周辺は「最上義光」の所領となり、戦功を認められた大谷吉継は越前を含む新規知行を拝領しました。
また、実動部隊として戦った上杉景勝は、小田原参陣と仙北一揆鎮圧などの功から出羽・庄内地方を加増されました。この地方の支配には、先の太閤検地での土地実測などの成果が十分に活かされたものと考えられています。
仙北地方の一揆については一応の平定をみたものの、その潮流は奥羽全体へと波及していき、秀吉統治体制への抵抗運動はさらなる激化を迎えることになります。
おわりに
「天下統一」と一口に言っても、それは軍事力での優位性だけでは実現することができませんでした。領民の管理と徴税システムなどの根本的な改革を必須のものとし、その過程では武力衝突を含む数多くの軋轢があったのです。仙北の地を含む東北地方の統治問題は、豊臣政権の天下統一事業にとってまさしく最終段階に位置する課題であったことがわかります。先述した秀吉朱印状からも分かるとおり天下を平定するという大義のもと、この時期には検地の断行にともなって反抗勢力の徹底弾圧にも躊躇のない姿勢を示しています。
そこには以上で見てきたような、「民」との凄惨な戦闘が繰り広げられたことを忘れてはなりませんね。
【主な参考文献】
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