「田中新兵衛」 薩摩の船頭は、やがて幕末四大人斬りの一人として全国を震撼させることに…

 薩摩の薬種商の子として生まれ、長じて幕末を代表する人斬りの一人として京都を震撼させた人物がいます。薩摩藩士の田中新兵衛(たなか しんべえ)です。

 新兵衛は船頭から身を起こし、武士の身分を獲得。剣術を極めて尊王攘夷運動に携わるようになります。寺田屋事件で同志を失った新兵衛は上洛し、”天誅” と称した要人暗殺を次々と行なっていきました。武市半平太ら土佐勤王党を後ろ盾にして京都を闊歩。やがて尊王攘夷派から離反した公卿までも手にかけてしまいます。

 新兵衛は何を目指し、何と闘い、どう生きたのでしょうか。田中新兵衛の生涯を見ていきましょう。

船頭から武士となる

薩摩の船頭から武士へ

 天保3年(1832)、田中新兵衛は薩摩国(現在の鹿児島県の西部)前ノ浜の薬種商の子として生を受けました。諱は雄平と名乗ります。

 新兵衛の生家は商人でしたが、没落したのか幼い頃には森山新蔵の商家に奉公人として仕えています。成長してからは、前ノ浜で森山の持ち船の船頭を務めるようになったと言われています。

 のちに”人斬り” と称される新兵衛ですが、武士の生まれではありません。新兵衛の運命が変わったのは、雇い主の森山新蔵によってでした。森山は薩摩藩屈指の豪商です。藩の財政再建に大きく貢献したことで、士分に取り立てが叶ったという経緯がありました。

 森山は新兵衛を見込み、士分の株を買い与えています。武士となった新兵衛は、島津家一門の島津織部(内蔵とも)の家臣となりました。藩主からすれば陪臣(家臣の家臣)であり、無足人という低い身分でしたが、藩士の列に加わっています。

田中新兵衛の精忠組との逸話

 ”人斬り” と称される人物は、剣術に優れた人間が多く見られます。新兵衛も薬丸自顕流や示現流のいずれかを習い、あるいは独力で習得した可能性があります。少なくとも、森山新蔵の嫡男・森山新五左衛門は、薬丸自顕流剣術の達人として知られていました。

 森山新蔵が新兵衛に剣術を学ばせた可能性は十分にあります。薩摩藩の郷中(ごじゅう。薩摩の武士子弟の教育組織)のどこかと関わりがあれば、剣術を習う機会もあったはずです。実際に森山は西郷吉之助(隆盛)ら精忠組に援助を行っており、新兵衛もそちらと繋がりがあったようです。新兵衛が二才(にせ。薩摩でいう青年)になるころには、剣術の手練れとして知られていました。

 精忠組は尊王攘夷に傾いた一派でした。安政6年(1859)、精忠組の一派は脱藩を計画。井伊直弼暗殺と京都への出兵する「突出」を目指していました。このとき、新兵衛は船の用意を依頼されています。この時点で新兵衛が船を動かすことが出来る立場であり、精忠組と深く付き合っていたことがうかがえます。

寺田屋事件と天誅

寺田屋事件で恩人を失う

 新兵衛の運命は、少しずつ動き出していきました。文久2年(1862)3月、薩摩藩国父(藩主の父)・島津久光は藩兵を率いて上洛。公武合体(朝廷と幕府の融和)と幕政改革のために動きます。

 一方、伏見の寺田屋には尊王攘夷に傾いた薩摩藩士が集結していました。4月、島津久光は寺田屋に集結した藩士たちを武力で鎮圧。多数の死者を出す事態に発展します。世にいう「寺田屋事件」です。

当時の寺田屋(京都府京都市伏見区南浜町)を再現。かつての寺田屋は鳥羽・伏見の戦いで焼失している。
当時の寺田屋(京都府京都市伏見区南浜町)を再現。かつての寺田屋は鳥羽・伏見の戦いで焼失している。

 森山新蔵と新五左衛門の親子は薩摩藩によって捕縛され、いずれも切腹してしまいます。恩人を失った新兵衛は、国許で知らせを聞いたようです。寺田屋事件の後、精忠組の盟主である西郷も捕縛。遠島に処せられるなど、薩摩藩内の尊王攘夷派は力を失いつつありました。

 ほどなくして新兵衛は上洛。京都では精忠組で知遇を得た有村俊斎(海江田信義)や藤井良節(良蔵)などの元に身を寄せています。やがて新兵衛のもとに、島田左近が伏見に滞在しているとの知らせがもたされます。

 島田左近は、五摂家・九条家の青侍(公家侍)でした。安政の大獄では、幕府大老・井伊直弼やその家臣・長野主膳に協力し、尊王攘夷派の大規模な逮捕や弾圧に協力しています。また、主人である関白・九条尚忠を幕府側に転向させ、将軍継嗣問題や和宮降嫁においても陰で活動しました。公武合体派としても京都では絶大な権勢を誇り、世間からは「今太閤」と称せられていました。

島田左近の暗殺により、天誅の口火を切る

 新兵衛たちはさっそく伏見に急行しますが、警戒していた島田左近は逃げおおせてしまいます。島田は彦根や丹波など居場所を転々としており、自らが命を狙われていることを十二分に用心していたのです。

 しかし新兵衛は諦めずに、ひと月にわたって島田を探索し、その行方を追い続けていました。そして7月に島田が京都木屋町の愛妾宅にいることを突き止めると、横目(監視)二人とともに島田を急襲しました。このとき島田は逃走し、木屋町の二段突き当たりにある善導寺の塀を乗り越えようとしますが、そこで尻を斬られて転落。新兵衛が島田を仕留めました。

 その後、新兵衛は島田の首を切り落とし、先斗町の四条河原でさらし首に及んでいます。島田の首は青竹に突き刺され、斬奸状(ざんかんじょう。悪者(=奸)をきり殺す趣意を書いた書状)が添えられていました。

 執拗、かつ残忍な犯行ですが、新兵衛の名は京都で一気に高まります。島田左近殺害は、京都における天誅(要人暗殺)の第一号でした。新兵衛は自らの剣で討幕運動の口火を切ったのです。

姉小路公知を暗殺する

武市半平太の義兄弟

 尊王攘夷派として名を高めた新兵衛は、文久2年(1862)8月に新たな出会いを果たします。小河弥右衛門の仲介で土佐勤王党の盟主・武市半平太(瑞山)と引き合わされています。

 武市は土佐の白札格の郷士でありながら、文武両道に長けた人物でした。国許では佐幕派の参政・吉田東洋を暗殺して土佐藩の実権を掌握。事実上、藩論を尊王攘夷に動かしています。新兵衛は武市と交わり、義兄弟の契りを結ぶまでに親交を結びました。それ以来、新兵衛は勤王党員・岡田以蔵と徒党を組み、武市の指示に従って、主に佐幕派や公武合体論者を次々と暗殺していくのです。

 なお、暗殺した対象は佐幕派だけでなく、新兵衛と同じく尊王攘夷を説いた越後出身の志士・本間精一郎までもを標的として殺害しています。本間は裏切り者とされていました。新兵衛にとっては、裏切り者の暗殺も任務の一つとなっていたようです。

本間精一郎遭難の地(京都府京都市中京区三条木屋町)
本間精一郎遭難の地(京都府京都市中京区三条木屋町)

朔平門外猿ヶ辻で姉小路公知を暗殺する

 新兵衛は、京都で次々と暗殺を実行して京都を震撼させました。天誅の名の下で、町奉行所役人の渡辺金三郎や森孫六らも暗殺。岡田以蔵とともに ”人斬り” の名を不動のものとします。

 新兵衛や武市瑞山は、尊王攘夷派の公卿を後ろ盾として活動していました。やがて、その筆頭である姉小路公知(あねがこうじ きんとも)が幕府寄りの立場を取りはじめます。姉小路は幕臣・勝海舟と会談。即時攘夷の無謀や和親条約破棄の無謀さについて力説されました。姉小路は勝の大攘夷論に賛成し、幕府批判の立場を軟化させつつあったのです。

 武市瑞山などの尊王攘夷派にとっては、破約攘夷(外国との現行の不平等な条約を一旦破棄し、日本側が主体的な性格を持つ条約に改めようとする考え)は純粋な目的ではありません。あくまで幕府を追い詰めるための作戦でした。

 当然、尊王攘夷派が放っておくはずはありません。姉小路の方針転換に反発し、この一件を変節と捉えていました。そして文久3年(1863)5月。姉小路公知は御所から退出し、護衛を連れて自邸に向かったとき、新兵衛ら三人の刺客が姉小路一行を朔平門外の猿ヶ辻で襲撃。姉小路を死に至らしめました。(朔平門外の変、さくへいもんがいのへん)

現場に残された田中新兵衛の刀

証拠品となった田中新兵衛の佩刀・奥和泉守忠重

 公卿の暗殺が起きたことで、京都守護職も警戒。御所の警備と議奏や武家伝奏らの護衛が命じられています。姉小路暗殺の現場には、薩摩拵えの刀が遺棄されていました。刀剣商によると「奥和泉守忠重」という薩摩の刀だと判明します。

 その後、土佐浪士の那須信吾が姉小路家を訪問して「奥和泉守忠重」を新兵衛の佩刀だと証言し、姉小路家は京都守護職と町奉行所に通報。京都守護職の会津藩は、東洞院蛸薬師にある新兵衛の住まいに踏み込みました。新兵衛と同志・仁礼源之丞、下僕・太郎の三人が逮捕、連行されて取り調べを受けることとなります。

 町奉行・永井尚志は新兵衛を尋問し、佩刀の「奥和泉守忠重」を証拠品として突き付けます。自身の佩刀を見るや、新兵衛の様子が変わります。新兵衛は一言も発せずに「奥和泉守忠重」を奪い取ると、自らの腹と喉を掻き切ったのです。

真犯人は田中新兵衛だったのか?

 新兵衛の死に関しては、不可思議な点がいくつかあります。

  • 1、人斬りと呼ばれるほどの手練れが現場に佩刀を遺棄するのは考えにくい。
  • 2、佩刀は数日前に酔いつぶれた時に何者かに奪われたとしたと新兵衛が証言していた。
  • 3、証言したのは、土佐勤王党の那須信吾だった。

 那須信吾は、武市半平太の同志です。当時の京都の政界は、薩摩を中心とする公武合体派と長州や土佐などの尊王攘夷派が主導権を争っていました。

 尊王攘夷派が政権を握るためには、公武合体勢力である薩摩藩の追い落としが必要です。那須信吾の証言によって新兵衛が逮捕され、薩摩藩が暗殺に関与したかのように噂されるようになりました。事件後に薩摩藩は御所の警備から外され、主導権争いから脱落しています。

 全ては推測ですが、最終的に尊王攘夷派、特に武市あたりが全ての絵図を描いていた可能性さえあります。ただ一つ確実なのは、田中新兵衛は天誅の口火を切り、悪い意味でも世の中を動かしたということです。


【参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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