「大村益次郎」靖国神社の銅像や戊辰戦争での活躍でお馴染み!大河ドラマ『花押』の主人公にして、奇兵隊を育て上げた長州出身の天才軍師

エドアルド・キヨッソーネが死後に関係者の説明で描いた大村益次郎の肖像(出典:wikipedia)
エドアルド・キヨッソーネが死後に関係者の説明で描いた大村益次郎の肖像(出典:wikipedia)
幕末から明治の中で、「兵」のあり方は大きく変わりました。その変化を主導したのが、長州藩士・大村益次郎(おおむら ますじろう)です。

益次郎は医者の子として誕生。医学を修行する傍ら、蘭学や兵学を修めるという特異な経歴の持ち主でした。その後、宇和島藩や幕府にも仕え、兵学教授として後進を育成します。長州征伐では、育て上げた長州兵を率いて出陣。大軍勢を打ち破り、藩の大勝利に貢献しました。

維新後は兵制改革を担当。兵部大輔にまで上り詰め、徴兵令の制定を目指すなど国民皆兵路線に舵を切ります。しかし急進的な改革は、反対派の怒りを買っていました。益次郎は出張した先で衝撃的な事件に遭遇します。

大村益次郎は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。その生涯を見ていきましょう。

医師にして蘭学を修めた天才

医師の子として生まれる

文政8年(1824)、大村益次郎は周防国吉敷郡鋳銭司(現在の山口県山口市鋳銭司)の大村で、医師・村田孝益の長男として生を受けました。母はうめです。

江戸時代は、親の職業をそのまま継ぐのが通例でした。益次郎も将来は医者になることはほぼ決まっていたようです。実際に天保13年(1842)に防府で医者の梅田幽斎に師事。医学と蘭学を学んでいます。

このときの益次郎の非凡さは傑出していました。梅田は広瀬淡窓(ひろせ たんそう)の私塾・咸宜園を推薦。益次郎は翌天保14年(1843)に豊後国(現在の大分県)日田に移住し、広瀬のもとで漢籍や算術を学んでいます。

桂林荘公園(大分県日田市城町)にある広瀬淡窓の石像
桂林荘公園(大分県日田市城町)にある広瀬淡窓の石像

向学心が旺盛な益次郎は、さらに学問に触れたいと考えていました。弘化3年(1846)には大坂の適塾に入門し、緒方洪庵に師事しています。適塾の同門には、福沢諭吉や大鳥圭介らも在籍。幕末や明治を彩った人物たちが多數確認されています。

加えて益次郎は、適塾に在籍しつつも長崎に遊学。医師・奥山静寂のもとで学ぶなど、医術の腕も磨きをかけました。やがて適塾の塾頭に抜擢され、門下生を代表する立場となります。

しかし益次郎の故郷では、家族が首を長くして帰りを待っていました。嘉永3年(1850)、父・孝益に帰郷を懇願されて、益次郎は帰国して村医として生きることを選びます。

緒方洪庵の適塾跡(大阪府大阪市中央区)
緒方洪庵の適塾跡(大阪府大阪市中央区)

蘭学者として宇和島藩に仕える

平穏な暮らしを送っていた益次郎に、やがて時代の荒波が押し寄せます。

嘉永6年(1853)、ペリー提督の黒船艦隊が浦賀沖に来航。幕府に開国を要求する事件が起きます。政治は混乱の様相を帯び始め、国外の知識の必要性がにわかに高まりました。益次郎は蘭学者として宇和島藩(現在の愛媛県宇和島市にあった藩)に出仕。100石取りという上士格の高待遇で迎えられるのです。

いくら益次郎が優れた蘭学者とはいえ、これは平時の村医者の待遇ではありませんでした。それほど危機意識が持たれていた時代とも言えます。宇和島藩では西洋兵学や蘭学を講義。さらに宇和島城北部に砲台を築かせるなど活発に活動しています。

さらに益次郎は安政元年(1854)から翌年にかけて長崎に出向し、軍艦製造の研究を行っています。提灯屋・嘉藏(前原巧山)の助けで西洋軍艦の雛形を製造することに成功。司馬遼太郎の『伊達の黒船』は、このときを主題として取り上げられています。薩摩藩に次いで国産の軍艦を製造した功績は、日本にとって非常に大きな一歩でした。

幕府の兵学教授から長州藩士へ

幕府の兵学教授に就任

益次郎の知識は、宇和島藩以外にも必要とされていました。安政3年(1856)4月、藩主の参勤に随行して江戸に上り、11月には私塾「鳩居堂」を麹町に開設。後進に蘭学や兵学、医学を教授しています。既に益次郎は宇和島藩を代表するほどの学者でした。

さらに同年、幕府が益次郎を蕃書調所の教授方手伝に採用。外交文書の翻訳や兵学の講義などを請け負うこととなります。宇和島藩に在籍した上で月米20人扶持、年給20両の待遇でした。外部の人間である益次郎は、幕府の外交を知る数少ない一人となっていたのです。

こうして幕府の信頼を得た益次郎は、次々と重要な役職を任されていきます。安政4年(1857)には幕府の講武所教授となり、幕臣に兵学の教授を行っています。翌年には功績が認められ、銀15枚の褒賞を受けるほどとなりました。

長州藩士として召し抱えられる

当然、郷里の長州藩が益次郎を放っておくはずはありません。万延元年(1860)、藩の要請に応じて、江戸に在住しながら同藩士となりました。いわば故郷に錦を飾った形です。翌年には帰国。藩の西洋兵学を研究する博習堂のカリキュラム改訂に携わり、下関周辺の海防調査にも赴いています。

しかし益次郎はより高みを目指していました。文久2年(1862)、アメリカ人宣教師・ヘボンに師事。彼のもとで英語や数学を学び始めます。当時の主流はオランダ語から英語に転換していました。益次郎も例に漏れず英語に力を入れていたようです。

実学的な取り組みは、早くも成果を挙げています。元治元年(1864)、長州藩は下関戦争でイギリスやフランスなど四国艦隊に敗北。攘夷は失敗に終わりました。このとき益次郎は外人応接掛に任命され、事件の後始末に当たっています。英語の能力は勿論ですが、益次郎の能力が見込まれての人事でした。結果、外国艦隊は無事に退去しています。


天才軍師、旧幕府軍を打ち破る

天才軍師、長州征伐を大勝利に導く

攘夷の不可能を悟った長州藩は、現実路線にシフトしていきました。慶応元年(1865)、高杉晋作らが挙兵して藩政を奪回し、藩から佐幕派を一掃して藩論を倒幕でまとめています。益次郎は馬廻役譜代100石取の上士を拝命し、軍政改革を断行する立場となりました。

長州藩では奇兵隊をはじめとした諸隊が誕生。益次郎は後進に西洋兵学を教授して人材を育成していきます。やがてその成果は、歴史を動かす形で表れました。翌慶応2年(1866)、幕府は長州征伐を断行。総勢十数万の幕府兵が長州に侵攻してきます。

益次郎らの準備は万全でした。事前に長崎の商人グラバーからミニエー銃などの新式銃を購入。隊の指揮官に戦術を徹底的に教えています。

同年6月、益次郎は石州口の指揮に着陣します。幕府側の兵を次々と破り、ついには石見国まで進軍。浜田城を陥落させるという大戦果を挙げました。全体の戦況でも、幕府は長州征伐で惨敗。その権威を大きく失墜させることとなったのです。

戊辰戦争への出陣

権威を失った幕府は、崩壊の道を辿っていきました。慶応3年(1867)、将軍・徳川慶喜は大政奉還を断行。その翌年1月には、鳥羽伏見の戦いが勃発します。戊辰戦争の幕開けです。

益次郎は出陣する藩世子の毛利広封に随行します。その後、東征大総督府補佐として江戸に下向。江戸府判事を拝命するなど中央政界にも足掛かりを築いています。

当時の関東や東北では、以前として旧幕府兵の抵抗が続いていました。江戸上野の寛永寺にも彰義隊三千名が集結します。ここで益次郎が討伐軍を指揮しますが、驚くべきことにわずか一日で彰義隊を鎮圧しています。

以降、益次郎は江戸から新政府軍の総司令官として討伐作戦を策定。その指揮の結果、戊辰戦争は翌年には終結。日本における内戦は最小限で済んでいます。

靖国神社にある大村益次郎像
靖国神社にある大村益次郎像

明治の兵制改革をリードする

兵制改革で薩摩と対立する

明治政府の樹立後、益次郎は兵制改革に乗り出します。当時の政府には、直属の軍隊がありません。そこで益次郎は、薩長土の三藩の藩兵から軍隊を創設するつもりでした。

加えて廃刀令や徴兵令の実施を画策。国民皆兵路線を提唱するなど、旧時代の武士の存在を否定する政策を打ち出します。同郷の木戸孝允も同意しますが、薩摩出身の大久保利通らが反対。直属軍隊創設計画が凍結されると、益次郎は辞表を提出しました。

新しい明治の時代を迎えていたものの、新政府の内部はまだ一枚岩ではありません。長州や薩摩出身者は、かつて同盟関係でした。しかし益次郎自身、薩摩藩を警戒し「今後注意すべきは西」と言い残しています。

辞表提出後、益次郎は慰留されて兵部大輔(次官)を拝命しますが、「卿とか大輔とか相唱へ」と皮肉を残すなど、決して喜んではいませんでした。しぶしぶ政府に残留した、という気持ちが伝わってくるようです。

攘夷派に暗殺される

明治の軍政改革を担うべく、益次郎は職務に精励していました。明治2年(1869)には軍事施設を視察するために京阪に出張し、伏見練兵場や天保山の海軍基地の検分に赴いています。しかし京都の旅館に停泊したとき、攘夷派の神代直人ら八人の刺客に急襲され、益次郎は右足などに重傷を負ってしまいます。

大坂では蘭方医・ボードウィンが益次郎を診察。左大腿部の切断手術を受けますが、手術の勅許を得る調整に時間を取られます。一月近く経ってからようやく手術を受けたものの、敗血症が悪化。結局、益次郎はそのまま息を引き取りました。享年四十六。

墓所は故郷の鋳銭司にあります。もう少し早く手術を受けられていたら、日本の歴史も少し変わっていたのかも知れません。

大村益次郎遭難之碑(京都市中京区木屋町御池上ル。wikipediaより)
大村益次郎遭難之碑(京都市中京区木屋町御池上ル。wikipediaより)

益次郎は遺言で「西国から敵が来るから、四斤砲を用意しておけ」と言ったと伝わります。後年、西南戦争で西郷隆盛が決起。このときのことを予期したのではないかと言われています。

益次郎の没後の明治6年(1873)、生前に推し進めていた徴兵令が制定されました。日本は国民皆兵路線へとシフトしていくのです。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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