「尾高長七郎」烈剣の尊攘派志士!渋沢栄一のいとこにして、命の恩人だった?

 数多くの企業や事業の創設に関わり、「近代日本資本主義の父」あるいは「実業の父」などと呼ばれる「渋沢栄一」。実業家としてのイメージが強い人物ですが、実は幕末には攘夷志士として活動していた時期がありました。

 豪農であった栄一の一族には優秀な人材が多く、文武の師にあたる親族もいましたが、先行して攘夷運動に身を投じた従兄がいました。そのうちの一人が「尾高長七郎(ちょうしちろう)」です。

 特に剣の遣い手として名を馳せた人物でしたが、単純な武断派ではなく思慮深いタイプの志士だったことが伝わっています。実は栄一は、この長七郎の思慮によって命を救われたといっても過言ではないのです。今回はそんな、尾高長七郎の生涯についてみてみることにしましょう。

出生

 尾高長七郎は天保7年(1836)、武蔵国榛沢郡手下計村(現在の埼玉県深谷市)に尾高勝五郎・やへ夫妻の次男として誕生。幼名は弥三郎、諱を弘忠といい、号には省寧・東寧を用いました。

 尾高家は下手計村(しもてばかむら)の名主(庄屋)を務め、藍や油の製造も行う豪農でした。岡部藩(現在の埼玉県深谷市の一部)藩主・阿部氏のもとで代々里正(村長)を務め、苗字帯刀を許されていました。長七郎の兄・惇忠(じゅんちゅう/あつただ)は渋沢栄一の初期の師でもあり、栄一の父・市郎右衛門の姉が長七郎らの母にあたります。


剣士としての行跡

 幼少より文武の才気を示したという長七郎ですが、とりわけ剣術の才能は群を抜いていたといわれています。後に渋沢栄一が「当時日本で一、二の腕」と評すほど、長じての全盛期には江戸中に武名を轟かせる剣士へと成長しました。

 長七郎が最初に剣の手ほどきを受けたのは、母方の伯父にあたる渋沢宗助からでした。宗助は血洗島村の名主であり、寺子屋や剣術道場を開いて近隣子弟の文武教育も担っていました。この道場は神道無念流「練武館」と号し、長七郎だけでなく兄の惇忠や渋沢栄一・渋沢喜作(成一郎)らもともに稽古に励んだといいます。

 長七郎の師・宗助は、武蔵国川越藩(現在の埼玉県川越市あたり)などに剣術師範として仕官した、大川平兵衛らに指導を受けた達人でした。平兵衛も農家出身で、慣例を破って近隣の町・農民へと出張指導を行うなど精力的に活動した剣術家として知られています。

 長七郎が学んだ神道無念流の江戸・斎藤弥九郎道場は「江戸三大道場」と称され、幕末でもっとも有名な剣術流派のひとつでした。有名な遣い手としては長州の桂小五郎や、新撰組の芹沢鴨・永倉新八らが挙げられます。

 当時の剣術では、すでに現代剣道に近い防具・竹刀を用いた直接打突制の稽古法を確立した流派も多く、そのため試合形式での他流派との交流も盛んでした。

 長七郎は『剣法試数録』という修行記録を残しており、それによると同門同士や、他流である甲源一刀流の剣士との試合、さらには渋沢宗助の師である大川平兵衛らの出張指導があったことがわかります。

 長七郎は安政元~2年(1854~55)、18~19歳の頃に流派の中印可を受け、現在の群馬県や栃木県方面へ武者修行に出たとされています。23~24歳で免許皆伝を得、師・渋沢宗助や兄・尾高惇忠らの勧めで文武修行のため江戸へと出、そこで約3年を過ごしました。この江戸遊学時代には幕府講武所の剣術教授・伊庭秀俊の門下となり、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)を学びました。

 ちなみに心形刀流は現在、三重県および亀山市の無形文化財に指定されており、剣術を中心に二刀・居合・小薙刀・柔術などの技を含む総合武術として知られています。

 有名な遣い手としては長七郎の師・伊庭秀俊の養子として宗家を継いだ、伊庭八郎が挙げられます。八郎は旧幕府軍として参戦した上野戦争で隻腕となるも、心形刀流の剣技を振るって函館戦争までを戦い、当地で戦傷死しました。長七郎は、このような苛烈な剣風の流派の影響下で修業を積んだといえるでしょう。

 江戸遊学から帰還した後は故郷に道場を開き、兄弟や親族らと剣術を教えながら遠方へと武者修行に出ることもありました。これは単なる鍛錬というに留まらず、諸国情勢の視察を大きな目的としていたことが指摘されています。

 また正確な時期は不明ですが、北辰一刀流・千葉栄次郎の門弟が出稽古(他流試合)に訪れた際、長七郎はこれを完全勝利で退けたといいます。

 北辰一刀流は神道無念流と同じく三大道場のひとつに数えられる流派であり、その剣士が高く評価したことから長七郎の剣名はさらに高まったといわれています。

尊王攘夷派志士としての行跡

 江戸遊学時代の長七郎は、剣術は上記のように心形刀流の門下、学問は庶民教育に注力した儒学の大家・海保漁村に学びました。

 一方で、江戸に集結していた多数の尊王攘夷派志士たちとの交流を持ち、自身も政治活動に関わるようになります。これは、長七郎の兄・惇忠が水戸学に強い影響を受けていたことにも由来すると考えられています。

 長七郎が関わった有名な志士としては、長州の久坂玄瑞や出羽の清河八郎らがいました。清河八郎は新撰組の前身である浪士組の創設者であり、それを倒幕兵力とするのを真の目的としていたことでも知られています。いずれもビッグネームといわざるを得ず、尊攘派志士の間でも長七郎が一定の存在感をもっていたことをうかがえるでしょう。

 長七郎の志士としての活動が目立つようになるのは、文久元年(1861)頃からのことです。この年の5~10月の間、事件を起こして逃亡中だった清河八郎が2度、長七郎を訪ねています。

 また、同年10月には攘夷論者・大橋訥庵の門弟らとともに輪王寺宮を擁しての挙兵計画を立案。この計画は訥庵の判断で中止となりますが、後に老中・安藤信正の襲撃計画に参画し、翌年に坂下門外の変が勃発します。長七郎は兄・惇忠の忠告を容れて老中襲撃計画からは離脱しましたが、この時点ではすでに国家規模の影響を及ぼす攘夷運動に関わっていたことがわかります。

 その後も京との間を往来して情勢探索を続けていた長七郎でしたが、文久3年(1863)10月に惇忠や栄一、喜作らの攘夷実行計画に直面します。それは上州・高崎城を襲撃して武器を調達、鎌倉街道を経由して横浜の異人街を焼き討ちするというものでした。

 しかし長七郎は、同年に起こった八月十八日の政変で過激尊攘派の公家や長州藩勢力が追いやられたという事実を背景に中止を諫言。実際に、同年8月の天誅組の変や同10月の生野の変では尊攘派勢力が掃討されており、短絡的な武力行使は社会情勢に逆行していることを説きました。

 この時の長七郎は命を懸けた剣幕であったとされ、やがて惇忠や栄一らは攘夷計画の中止を受け入れます。仮に襲撃を決行していた場合、天誅組らと同様に討伐対象となった可能性が高いことが指摘されており、結果的に渋沢栄一を「救った」ともいえるでしょう。

投獄~最期

 攘夷を具体的に計画して水面下で準備することは犯罪に相当し、その嫌疑・追及を逃れるため渋沢栄一と渋沢喜作は伊勢神宮参拝を偽装して京に向かいました。

 遅れて京へと向かうはずだった長七郎でしたが、文久4年(1864)3月に通行人を斬殺した罪で捕縛・投獄されてしまいます。この事件の経緯は不明で、幕府からの追手と誤認したことなどが想定されています。

 惇忠や栄一らの嘆願は通らず、長七郎が釈放されたのは4年後の明治元年(1868)のことでした。体調を著しく害していた長七郎は、同年11月18日に故郷の下手計村で永眠。その墓は現・埼玉県深谷市の妙光寺にあります。

おわりに

 渋沢栄一は後年、攘夷計画を止めた長七郎の諫言が多くの命を救ったと回顧しています。その人物・能力を惜しまれた尾高長七郎ですが、陰ながら歴史に与えた影響は大きなものがあったといえるでしょう。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『徳川慶喜公伝』(ジャパンナレッジ版) 渋沢栄一 1967 東洋文庫
  • 「江戸時代における埼玉県の剣術」『武道学研究 11-3』 志藤義孝 1979 日本武道学会
  • 公益財団法人 渋沢栄一記念財団 デジタル版 『渋沢栄一伝記資料』

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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