「渋沢栄一」大河の主人公で新1万円札の顔の人!近代日本の礎をつくった「経世済民」の大実業家
- 2021/04/14
名前はよく知られており、偉大な事績を残したにも関わらず、その全体像が少しイメージしにくいという歴史上の人物がいないでしょうか。そんな「偉人」の一人が、2021年大河ドラマの主人公、「渋沢栄一」です。
作品では聡明な情熱家として描かれ、後に日本の近代化に多大な貢献をする若者が爽やかに演じられていますね。彼は歴史上、いったいどのような役割を果たしていくことになるのでしょうか。
今回はそんな、渋沢栄一の生涯を概観してみたいと思います!
作品では聡明な情熱家として描かれ、後に日本の近代化に多大な貢献をする若者が爽やかに演じられていますね。彼は歴史上、いったいどのような役割を果たしていくことになるのでしょうか。
今回はそんな、渋沢栄一の生涯を概観してみたいと思います!
出生~明治政府仕官の時代
渋沢栄一は天保11年(1840)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に渋沢市郎右衛門とエイ夫妻の長男として誕生しました。渋沢家は農業のかたわら養蚕と藍の製造を生業としていました。栄一は家業に従事しつつ、漢学を尾高惇忠(おだかあつただ)の私塾において学びました。
この尾高惇忠とは、のちに富岡製糸場の初代場長や、第一国立銀行仙台支店の支配人を務めることになる人物で、栄一の従兄にあたります。
栄一は文久年間(1861~64)には、江戸に出て儒学者の海保漁村に学問を、剣術・北辰一刀流の千葉栄次郎にそれぞれ師事しました。
幕末当時、折しも尊王攘夷の機運が高まりを見せ、栄一も仲間とともに文久3年(1863)に攘夷活動として高崎城(現在の群馬県高崎市)攻略を計画。しかし、尊攘派の志士であり従兄でもあった尾高長七郎の説得を受け思いとどまりました。
明けて元治元年(1864)2月、栄一は一橋家家老並で徳川慶喜の側用人であった平岡円四郎の推挙を受け、一橋家に出仕することとなりました。栄一は持ち前の手腕を発揮して主家の財政充実に努め、その功を認められて慶応2年(1866)に一橋家の勘定組頭に抜擢されました。
現代風にいえば20代の若さで国家公務員として経理課長相当の役職に就いた、などと解釈できるかもしれません。ただし、農民の出自から抜擢されて御三卿での重職を任されたことは、当時としては特筆すべき点といえるでしょう。
翌年1月、栄一は徳川慶喜の弟・徳川昭武に随行してパリへと外遊します。これは万国博覧会列席のための渡航で、この時に見聞したヨーロッパの制度・技術・文化などが栄一の思想形成に大きく影響したといいます。
しかしその間に大政奉還によって江戸幕府が消滅。明治元年(1868)11月に帰国した栄一は、静岡藩に奉職したのち翌年11月に明治新政府に出仕。民部省に入庁して租税正という租税事務処理にかかわる職務を担当しました。
明治3年(1870)、省庁再編に従って大蔵省に所属。翌年には大蔵権大丞に就任して新貨条例や造幣規則、そして国立銀行条例などの起草立案に参画しました。
栄一はほかにも地租改正事務局の設置や第一国立銀行の設立などにも尽力しましたが、政府への健全財政実現の主張は受け入れられませんでした。
その主張は大蔵大輔であった井上馨とともに行ったものでしたが、栄一は却下を受けて明治6年(1873)5月に大蔵省を辞任。33歳の時でした。
実業家の時代
大蔵省を退官した栄一は、実業家としての道を歩むことになります。世に知られるその事績の多くはこの実業家時代のことともいえ、日本の近代化を支える多くの企業設立にたずさわりました。その中心となったのは第一国立銀行の総監役、のちに頭取の職務であり、極論すればこれが栄一の本業だったといえるでしょう。
銀行関連では第十六・第二十・第七十七の各国立銀行や、その他の特殊銀行・普通銀行の創立を行いました。また、銀行集会所や手形交換所の設立にかかわる業務にも注力しています。
銀行以外での主な企業設立や協力の実績を、以下に列記してみましょう。
- 明治6年(1873)………抄紙会社(のちの王子製紙):日本初の洋紙製造会社
- 明治12年(1879)……大阪紡績会社:日本初の本格的紡績会社
- 同年……………………東京海上保険会社:日本初の海上保険会社
- 明治15年(1882)……共同運輸会社(3年後、郵便汽船三菱会社と合併して日本郵船会社に)
- 明治16年(1883)……日本鉄道会社:日本初の民営鉄道会社
- 明治19年(1886)……三重紡績会社・鐘淵紡績会社・大日本紡績連合会
- 明治29年(1896)……東洋汽船会社(創立は浅野総一郎)
- 明治40年(1907)……日清汽船会社(栄一は創立委員長)
その他、織物・製麻・製糖・帽子・ビール・ガラス・セメント・ガス・造船・人工肥料・電気・株式・ホテル等々、多岐にわたる業種の起業・創立に尽力しました。
これだけ多くの事業に関わった栄一でしたが、自ら大財閥を築かなかったことからもわかるように利潤の追求を主眼とはしていなかったとされています。
幕末の外圧と内乱を経験してきた栄一は、近代産業を興隆させて国力増強を図ることが喫緊の課題と考えていました。また、民間実業家の地位向上にも積極的な取り組みをしており、官民の橋渡しとしての役割も担いました。
東京高等商業学校・大倉高等商業学校・高千穂学校・東京高等蚕糸学校・岩倉鉄道学校などの各種実業学校の創設も行い、実業教育の充実と人材の育成にも心を砕きました。
そんな栄一にとって、規範の柱となるのが『論語』であったといいます。栄一の代表的著書にも『論語と算盤』のタイトルがあり、道徳観念の伴う経済活動を常に志向していました。
公共事業の時代
明治42年(1909)、古希(数え年での70歳)を迎えた栄一は、金融関係を除く事業会社の役職をすべて退任。その数は約60社分におよびました。大正5年(1916)10月には金融業界からも引退し、その後を社会公共事業に捧げることになります。東京市養育院の院長を続投するなど福祉にも注力しましたが、特に関心が高かったのは国際親善に関わることでした。
現役時代より各国主要都市を歴訪して欧米諸国ならびに東アジアの実業家との交流を持っていた栄一は、平和的な国際交流が経済を健全に活性化させることの重要性を見抜いていました。
大正10年(1921)のワシントン軍縮会議の折には自らも渡米し、平和外交への支援を行っています。また、民間人としての立場からも国際親善に取り組み、来日した賓客を自邸に招待することも積極的に行っていました。王子飛鳥山(現在の東京都北区)にあった渋沢邸を訪問した外国人の数は、確認できるだけでも1000名を下らないとされています。
大正12年(1923)には関東大震災で甚大な被害が生じ、栄一は政府と東京市に対応の意見具申を行いつつ自費での救援活動を続け、復興支援にも大きな貢献をしました。
昭和6年(1931)、大腸狭窄症を発症した栄一は同年10月に自宅で開腹手術を受けましたが、11月11日に91年の生涯を閉じました。
逝去当日の午後には天皇勅使と皇后・皇太后の使者が遣わされ、11月14日の通夜にも同じく勅使・御使が訪れたといいます。栄一の魂は、東京・谷中霊園の渋沢家墓地に眠っています。
おわりに
実に数多くの企業創立に関わった渋沢栄一。そのなかには、現在の私たちにもなじみ深い名前が見受けられることに気が付きます。栄一の経済活動で特筆すべき点は、いわゆる拝金主義に傾かなかったことにあるのではないでしょうか。道徳や規範といった「人道」を重視し、経済を潤すことで社会福祉や公共事業など、市民の物心両面の幸福を目指した人物だったといえるでしょう。
このような考え方は現在に生きるわたしたちにとっても普遍的な目標であり、本来的な意味での「経世済民」を実現する大きなヒントを与え続けてくれています。
2024年度には新1万円札の図柄として渋沢栄一の肖像が使われることが決まり、改めてその事績に思いを馳せる契機となっています。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
- 公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢栄一略歴
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