明治時代に日光駅と足尾銅山つないだ馬車鉄道。その跡を追う学生の調査に地元のスペシャリストたちが力添え。知識を融合させて、歴史的遺産の足跡の解明に挑みました!

図1 2022年10月24日の調査エリア。宇都宮大学作図。
図1 2022年10月24日の調査エリア。宇都宮大学作図。

2022年10月24日。日光市を知り尽くす「地元のスペシャリストたち」と「宇都宮⼤学」の学生たちが知識を持ち合わせ調査研究活動を行ってまいりました。このたびの調査の舞台は、日光駅から足尾へ向かう箇所(日光駅から細尾エリア)。そして、目的は、かつて「馬や牛」が引いた軌道のルートを探ること。

宇都宮大学の研究で読み解いた「当時の申請資料(一次史料)」の知見をもとに、地元の歴史的遺産を知り尽くすスペシャリストたちの知識も融合し、日光に残る遺産の歴史的ストーリーを明らかにしてきました。

■この度の調査の範囲は、後に東武鉄道の「日光電気軌道」へと引き継がれたエリアでございます。
今回の2022年10月24日の現場は下記の図の北東部分「日光駅から細尾エリア」です。

足尾銅山の馬車鉄道は足尾銅山の物資輸送のために敷かれ、そして時を経て地域のかけがいのない輸送インフラへとその役目が引き継がれていきました。日光市側の馬車鉄道は明治26年に竣工となってから、足尾銅山の貨物輸送用として走り始め、次第に町の人々にとっての大切なインフラとなっていきました。

その後、その役目は日光町と古河鉱業が敷設した「日光電気軌道」にバトンタッチされ、さらに、東武鉄道系列へと引き継がれました。

下の写真は東武鉄道系列の様子です。通勤通学で学生から会社員まで多くの人々の生活に欠かせない輸送手段となってたことがわかります。

写真1「女子学生たちでいっぱいになった停留場」安良沢 中谷文夫撮影。東武博物館発行の「なつかしの日光軌道」より引用。これは昭和30年代末から1968(昭和43)年の間で撮られたもの。
写真1「女子学生たちでいっぱいになった停留場」安良沢 中谷文夫撮影。東武博物館発行の「なつかしの日光軌道」より引用。これは昭和30年代末から1968(昭和43)年の間で撮られたもの。
写真2「凍てつく朝、乗車を待つ通勤者たち」安良沢、中谷文夫撮影。東武博物館発行の「なつかしの日光軌道」より引用。昭和30年代末から1968(昭和43)年の間で撮られたもの。
写真2「凍てつく朝、乗車を待つ通勤者たち」安良沢、中谷文夫撮影。東武博物館発行の「なつかしの日光軌道」より引用。昭和30年代末から1968(昭和43)年の間で撮られたもの。
写真3東武博物館発行の冊子「なつかしの日光軌道」の表紙です。写真は神橋の下流に設けられた専用橋を渡る日光軌道200型 岡準二撮影。東武博物館発行の「なつかしの日光軌道」より引用。
写真3東武博物館発行の冊子「なつかしの日光軌道」の表紙です。写真は神橋の下流に設けられた専用橋を渡る日光軌道200型 岡準二撮影。東武博物館発行の「なつかしの日光軌道」より引用。

足尾銅山の馬車鉄道は、明治時代に足尾銅山と日光駅方面と群馬方面とをそれぞれ繋がり、輸送の主力を担いました。やがて、日光駅側での役目は、後にできる日光電気軌道、そして東武鉄道傘下に入って担われました。そして、群馬側の役目は足尾鉄道(現:わたらせ渓谷鐵道)に担われることになりました。

「馬車鉄道」は英語で「Horse Tramway」といいます。「鉄道」ではなく「軌道」のたぐいとして扱われた「馬車鉄道」ですが、東武博物館発行の「なつかしの日光軌道」の表紙には「NIKKO TRAMWAY」としっかりと「TRAMWAY」の文字が記されております。

ちなみに、足尾銅山の馬車鉄道は、日光駅方面では牛や馬がけん引し、群馬方面では馬が牽引しました。日光駅方面では、社寺周辺の風致を守ること、さらには参詣する人々の安全や、既に輸送を生業としている人びとへの配慮もあり、気性が荒く暴れやすい牡馬による牽引は控えられ、ゆっくりと牽引する牛が好まれたからです。

逆に群馬方面では牛での牽引は禁止されました。それは、牛は歩みがゆっくり過ぎて街中で渋滞がおき、さらには牛の糞尿が町中に溜まり衛生上よろしくないと判断されたからです。それぞれの町の事情に合わせて足尾銅山の馬車鉄道の敷設は許可されていきました。

■学生が調査研究に励んでいる!そんな話が伝わって、地元日光市のスペシャリストがまた一人加わって力を添えてくれました。

今年に入り、宇都宮大学の学生たちが日光市に残る「馬車鉄道」の跡地を観光資源に変えるべく、調査に着手しております。これまで、地元足尾の現場を知り尽くしているスペシャリスト3名(日向野氏、町田氏、山田氏)にお力添えを頂き進めてきました。

「宇都宮大学地域デザイン科学部の研究室の学生たちが地域の観光資源の掘起しに挑んで調査を進めている!」。そんな話が地域の方々にも伝わって、このたびの10月24日の調査では、地元日光のスペシャリストの柳原氏(写真右側から2人目の方)がお力を貸してくれました。話を広めて下さった方々も含め、日光市の地元の方々から頂きました学生に対する愛情が心にしみた調査日となりました。

写真4東武鉄道日光駅前広場に置かれている日光軌道線100形車両の前での記念撮影。2022年10月24日。宇都宮大学撮影。
写真4東武鉄道日光駅前広場に置かれている日光軌道線100形車両の前での記念撮影。2022年10月24日。宇都宮大学撮影。

■2022年10月24日の調査の様子。
このたびの調査のエリアは、上掲の図1の「日光駅から細尾エリア」の箇所です。古河機械金属株式会社所蔵の一次史料によれば、日本鉄道(日光線)の日光駅の駅舎と大谷川に挟まれた地に足尾銅山の貨物駅が建てられており、そこから足尾銅山(細尾エリア方面)に向かって大谷川(だいやがわ)沿いを通していたことがわかっておりました。

しかし、このエリアは、明治期の度重なる台風によって流されている場所でもあること。そして、1910(明治43)年からは日光町と古河鉱業の出資による日光電気軌道が開通して役目を譲ること。さらに、1928(昭和3年)からは東武鉄道の系列下の軌道となっていくことなどから、複数の史料を見て調査を進めなければなりませんでした。

今年の調査に至るまでに並行して進めて来た東武博物館発行の文献(なつかしの日光軌道)や、その他の明治期の絵地図などの史料も持ち寄り、ポイントとなる箇所の選定をして参りました。2022年10月24日の調査の日の朝、出発前にあらためて調査箇所の確認を行いました。下記の写真5がその時の様子です。

当日は、朝に足尾公民館に集合し、調査箇所をあらためて確認し、日光駅へと向かい、その後、索道と繋がる細尾のエリアへと向かう流れでございました。

写真5足尾公民館にて調査出発直前での最終確認の様子。この日までにいろいろと準備を進めてきました。2022年10月24日。宇都宮大学撮影。
写真5足尾公民館にて調査出発直前での最終確認の様子。この日までにいろいろと準備を進めてきました。2022年10月24日。宇都宮大学撮影。

■まさに調査のその日まで不明であった明治30年代の絵地図や東武鉄道との関係などの情報が加わりました。
地元日光市のスペシャリストである柳原氏が、小雨の中にも関わらず、ご自身が所蔵している明治30年代の絵地図を持ってきてくれて合流し、幼少期から知っている日光駅前の様子や東武線の情報なども示してくれました。

写真6日光駅はJRと東武が御座います。ご自身が幼少期から見聞きしている情報やご自身で集められた絵地図を見せてくれました。写真右から二番目の方が柳原氏です。2022年10月24日。宇都宮大学撮影。
写真6日光駅はJRと東武が御座います。ご自身が幼少期から見聞きしている情報やご自身で集められた絵地図を見せてくれました。写真右から二番目の方が柳原氏です。2022年10月24日。宇都宮大学撮影。

これまでに調べてきた知識とも合わさり、全員で納得に至りました。地元の有識者が力を合わせると、やはりすごい情報があつまります。

写真7古河の貨物駅の場所を確信出来て見な納得で大満足でした。本学の学生は写真左側です。(左から島崎君、小島君。インフラ整備が自身らの専門範囲です。)2022年10月24日。宇都宮大学撮影。
写真7古河の貨物駅の場所を確信出来て見な納得で大満足でした。本学の学生は写真左側です。(左から島崎君、小島君。インフラ整備が自身らの専門範囲です。)2022年10月24日。宇都宮大学撮影。

■そして、日光駅から足尾銅山方面へ。大谷川(だいやがわ)左岸側を調査しました。
古河機械金属所蔵の当時の申請書の内容と絵図(一次史料)によれば、日光駅に貨物駅を隣接させて接続した馬車鉄道は、大谷川(だいやがわ)の右岸側を上流側へと進み、神橋付近で大谷川(だいやがわ)を渡って左岸側に沿って足尾銅山方面へ進んでいきます。

そして、索道と繋がるために「細尾(ほそお)」という地区まで敷設されました。途中、下掲写真8の、大日堂(明治35年の台風時の洪水で流されてしまった場所)と大谷川の間を縫うように敷かれました。当然、馬車鉄道敷も流されたと考えられます。

その後の時代においても、山からの土砂の流入が川底を上げてきたことを考えれば、当時の川底は現在よりももう少し低い位置にあったと思われます。その分、今よりも大谷川と大日堂の間には幅があったはずです。

ちなみに、後に役割を引き継ぐことになる「日光電気軌道」は、ここではなく、この高さよりもずっと高い位置、「日光田母沢御用邸」のすぐ山側の道路に敷設されることになります。

写真8大日堂跡地にて。大谷川の川岸ぎりぎりまで敷設された跡をその目で確認してきました。写真左は本学学生の島崎君、右は小島君。2022年10月24日。宇都宮大学撮影。
写真8大日堂跡地にて。大谷川の川岸ぎりぎりまで敷設された跡をその目で確認してきました。写真左は本学学生の島崎君、右は小島君。2022年10月24日。宇都宮大学撮影。
写真9写真左が大谷川(神橋が跨ぐことになる川です!)で大日堂跡地は写真中央から右側あたりです。こんなぎりぎりの所を通っていたのですね。当時の土木技術者の考えにも思いを巡らせながら現場を確認しました。
写真9写真左が大谷川(神橋が跨ぐことになる川です!)で大日堂跡地は写真中央から右側あたりです。こんなぎりぎりの所を通っていたのですね。当時の土木技術者の考えにも思いを巡らせながら現場を確認しました。

2022年10月24日。宇都宮大学撮影。

■馬車鉄道は荷を牽き足尾銅山方面へ、そして、「細尾(ほそお)」の山際で、索道(ロープウェイ)へと荷を繋いだのです。

足尾銅山の馬車鉄道の荷物は、現在の古河電気工業株式会社のある「清滝(きよたき)」を通り、そして、「細尾(ほそお)」と繋がっていて、「細尾(ほそお)」と上掲の図1の「地蔵坂」の地点からは索道(ロープウェイ)で山を越えて行き来していました。下掲の写真10が細尾の索道のステーション跡地です。

写真10細尾索道のステーションがあった場所を確認しました。ここまで馬車鉄道が来ていたのですね。2022年10月24日。宇都宮大学撮影。
写真10細尾索道のステーションがあった場所を確認しました。ここまで馬車鉄道が来ていたのですね。2022年10月24日。宇都宮大学撮影。

これにて本年の調査は終了となりました。またの調査の機会を経て、宇都宮大学地域デザイン科学部は、地域の歴史的、文化的資源を掘り起こし、観光へと繋げていきたく思っております。

本年の調査の最後に、細尾の索道の跡地の前で、思い出の記念撮影です。写真11の左から、地元足尾のスペシャリスト日向野氏、本学島崎君、小島君、そして足尾の鉄道、軌道、機械類のスペシャリスト町田氏、足尾銅山の土木事業や産業遺産のスペシャリスト山田氏です。

このたびの調査を通じて、地域の知の継承と融合とができました。支援をしてくださった栃木県に深く感謝を申し上げます。

写真11本年の調査の最後に、細尾の索道の跡地の前で、思い出の記念撮影です。2022年10月24日。
写真11本年の調査の最後に、細尾の索道の跡地の前で、思い出の記念撮影です。2022年10月24日。

■足尾銅山の馬車鉄道の歴史と遺産
足尾銅山の馬車鉄道の歴史と遺産はいかがだったでしょうか。もう少し歴史を加えれば、実は昭和20年代後半以降は輸送手段として、バスやトラックが活躍し始めます。下の写真12がそれを如実に表しているかなり面白いショットです。

写真12「まだ自動車もガタガタ」電車車庫~古河アルミ前 中谷文夫撮影。東武博物館発行の「なつかしの日光軌道」より引用。これは昭和30年代末から1968(昭和43)年の間で撮られたもの。
写真12「まだ自動車もガタガタ」電車車庫~古河アルミ前 中谷文夫撮影。東武博物館発行の「なつかしの日光軌道」より引用。これは昭和30年代末から1968(昭和43)年の間で撮られたもの。

足尾銅山の馬車鉄道の輸送も担い、そして日光市民のインフラとして活躍した「日光電気軌道」も、役目を終えた1968(昭和43年)2月24日についに廃止となりました。下掲の写真13がその日の写真です。今回の調査では東武博物館の資料でも勉強して調査をしております。写真の掲載の許可も頂き、東武博物館の皆様有難うございました。

写真13「最後の日光軌道に乗ろうとする多くのお客様」1868(昭和43)年2月24日 中谷文夫撮影。東武博物館発行の「なつかしの日光軌道」より引用。
写真13「最後の日光軌道に乗ろうとする多くのお客様」1868(昭和43)年2月24日 中谷文夫撮影。東武博物館発行の「なつかしの日光軌道」より引用。

■日光に観光に来られたら、記念写真を一枚、撮って見ませんか。
歴史を振り返ると、足尾銅山の馬車鉄道は、日光側では現在のJR日光駅、そして、その後に東武日光駅と、その輸送の恩恵と繋がっております。JR線でお越しになられても、東武鉄道でお越しになれれても、記念写真を一枚撮ってみませんか。下記の写真14の時代や足尾銅山の近代化の歴史との、時を超えた繋がりを楽しめるはずです。

写真15のように、現在、東武日光駅前広場には車両が置かれております。本記事が皆様の日光への観光の記念の一枚を彩れたのであれば幸いでございます。

写真14東武駅前風景 中谷文夫撮影。東武博物館発行の「なつかしの日光軌道」より引用。これは昭和30年代末から1968(昭和43)年の間で撮られたもの。
写真14東武駅前風景 中谷文夫撮影。東武博物館発行の「なつかしの日光軌道」より引用。これは昭和30年代末から1968(昭和43)年の間で撮られたもの。
写真15東武駅前広場の様子(2020年)。宇都宮大学撮影。
写真15東武駅前広場の様子(2020年)。宇都宮大学撮影。

このたびの活動においては栃木県の「令和4(2022)年度大学地域連携活動支援事業」で採択を頂き、支援を頂いております。

■栃木県/令和4(2022)年度大学地域連携活動支援事業について
https://www.pref.tochigi.lg.jp/a01/daigaku/daigaku-chiiki-renkei.html

また、日光市および足尾行政センター、古河機械金属株式会社、足尾銅山の世界遺産登録を推進する会、地元の有識者の方々のお力添えを頂きながら進めている調査研究活動です。

なお、地域の方々との交流に際しは、写真撮影の際のみ、一時瞬間的にマスクを外しての撮影とし、新型コロナウィルスの蔓延防止について十分な配慮をしつつ進めて参ります。

■宇都宮大学 地域デザイン科学部
http://rd.utsunomiya-u.ac.jp/

■古河足尾歴史館
https://www.furukawakk.co.jp/ashio/ashio/

■トロッコ館情報
https://www.furukawakk.co.jp/ashio/news/

■足尾銅山の世界遺産登録を推進する会
https://ashiodozanworldheritage.net/free/profile

上掲の東武博物館の文献から引用した画像(写真1,写真2,写真3、写真12、写真13、写真14)は、この記事への掲載を目的として、東武博物館からのご許可を頂いて利用条件に従い掲載しております。

本掲載記事、および本掲載記事のPRおよびプレスリリース以外での使用をされる場合は、別途、東武博物館の許可を得て利用条件に従う必要がございます。

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