【麒麟がくる】第37回「信長公と蘭奢待」レビューと解説
- 2020/12/23
義昭の挙兵から、朝倉・浅井両氏の滅亡までは随分簡略化されて描かれました。幕府は滅亡し、信長は一歩天下へ近づくのですが、帝とニコイチだと思っているのは信長だけで。一方光秀は、信長のことを計りかねていて……。
三淵藤英と細川藤孝、兄弟の選択
三淵藤英と細川藤孝の兄弟は、13代将軍・義輝の近臣として仕え、義輝亡き後はその弟の義昭を還俗させ、支えました。兄弟が協力して将軍に仕える。その関係は、義昭と信長が対立し始めたころから変わります。作中では随分前から藤英の隣に藤孝の姿が見えず、義昭が頼りにするというのは「藤英と十兵衛」だという……。このころ、藤孝は義昭から離れて信長に近づき、信長に臣従することを決断していたのでした。
槇島城で籠城していた義昭に、「これからは我らの世」だという藤吉郎。藤孝は「政を行うには時の流れを見ることが肝要」だと気づいたのだ、と兄に言いました。
室町幕府の時代はもう終わった。潮目が大きく変わるそのタイミングを見極めて信長を選択したのが藤孝です。本能寺の変の後も時流を読んで行動するというちょっとした伏線になっていますね。
兄の藤英は時の流れがどうあろうとも、将軍を支えるのが自分の役目と捉え、幕府が滅びるならそれに殉じる覚悟でした。
今回の伏見城での兄弟の場面は、前回に続き「訣別」といっていいほど、兄弟の考え方の違いが浮き彫りになりました。このあと藤英は信長に仕えることになりますが、それも長くは続きません。
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天正への改元問題
改元に関する問題は、以前も取り上げました。改元は将軍から帝にお伺いを立てて行うのが慣例となっていました。将軍の重要な役割でもあったわけです。
永禄から元亀への改元は、義昭の奏請によるものでした。この時義昭は朝廷へ献金して説得し、信長の反対も振り切って改元しています。
それから数年後の元亀3(1572)年、天正への改元まで一年ありますが、このころからすでに改元について議論されていたようです。しかし、元亀に改元した義昭は改元にかかる費用献上を拒んでいたのでした。
このことは「十七カ条の異見書」でも義昭批判のひとつとなっています。「元亀は不吉だから改元したほうがいい。宮中から催促があったにもかかわらず、費用を献上されないので今まで延引している」と。
信長と義昭の間には、改元に関するこうした問題が横たわっていたのです。実際、天正への改元に信長がどれほどかかわったかはわかっていません。あくまで、朝廷が選定したものの中から「どれがいいと思う?」と聞かれ、「天正」がいいという信長の意向が反映されただけなのかもしれません。
ところで、令和への改元時は出典が『万葉集』であることが話題になりましたね。もちろんこの天正にも出典があります。
信長は「天が正しい」と言っていましたが、出典は『文選』潘岳「藉田賦」の「高以下為基、民以食為天、正其末者端其本、善其後者慎其先」、そして『老子』の「清静者為天下正」です。
特に「清静者為天下正」については、戦乱の災いのために改元されたので、清く静かな世を願うというのもよくわかります。
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朝倉・浅井の滅亡
長く苦しめられたわりにはあっさり描かれた朝倉・浅井氏の滅亡。信長が朝倉義景、浅井久政、浅井長政の3人の首を肴に酒宴を開いたという逸話は有名ですね。出典は『信長公記』です。それによると、信長は、薄濃(はくだみ)といって、漆塗りにして金泥で彩色を施した頭蓋骨を膳に置いたのだそう。恨みや怒りではなく、敬意を表したものであったという説もありますね。
義景の死は長政に比べると丁寧に描かれました。従兄弟の景鏡(かげあきら)によって切腹させられました。それが天正元(1573)年8月20日のことです。
続いて、浅井久政が8月27日に自害。長らく子の長政はその翌日28日に自害したとされてきましたが、29日に出された感状が見つかったことにより、命日は9月1日とされました。※荻野三七彦氏の論文「浅井長政最期の感状」(『古文書研究』31号、1989年9月)
信長が所望した蘭奢待
従五位下に叙され、昇殿が許される立場になった信長。天下一の名香「蘭奢待」を所望する信長について、三条西実澄は「あまりにも不遜の仕儀」と憤慨しますが、正親町天皇は許可しました。蘭奢待の切り取りについて実澄が怒ったかどうかはわかりませんが、帝が勅使を立てなかった手続きの不備を、書状で叱っています。
蘭奢待は、松永久秀が明け渡した多聞山城でお披露目されました。『信長公記』によれば、信長は1寸8分(およそ5.5センチ)切り取ったとされます。
足利義政以降も蘭奢待を所望した将軍はいたようですが、叶わなかったとか。将軍すら手に入れられなかったものを手にした信長の喜びようときたら、エクスタシーを感じるような顔でしたね。
信長はもらった2つのうち1つを帝にあげようと考えます。もとはひとつだったものを分けてもつことで、帝と並んだような気になったのか。しかし帝は当然、これを喜びませんでした。信長は手柄をあげた家臣に褒美を与えることで知られますが、父上へのプレゼントといい、目上の人が喜ぶものはわからないのでしょうか。
信長の浮き立つ心とは裏腹に、呆れたような、静かな怒りを湛えたような様子の帝は、信長がよこしたひとかけらを毛利輝元に贈るように言うのでした。まだこのころは信長と輝元は同盟関係にありましたが、のちに破棄されます。義昭は輝元を頼って鞆へ。
ちなみに、安芸の厳島神社には毛利から寄進された蘭奢待があるとか。天下から輝元に遣わされたものが寄進されたようです。
家臣の器
三淵藤英は、藤孝とともに岩成友通攻めを行いましたが、翌天正2(1574)年、信長は藤英の居城・伏見城の破棄を命じます。藤英と嫡男の秋豪は坂本城の光秀に預けられます。蘭奢待拝見の許可が下りる前、光秀は今井宗久に「拝見できると思うか」と尋ねていました。そして、信長はなぜ蘭奢待を所望したのか。宗久は「ひとつの山」だと言いました。ここまでのぼってきて、自分の値打ちを示すものがほしい。値打ちが知りたいと。
しかし光秀はそうは思わない。自分達はいまだ山の中腹にあり、頂は遠い。自分の値打ちはこれだと定めて喜ぶ時ではないのです。
信長について、だんだんわからないことが多くなる光秀。藤英にポロっと「信長様のお考え時に計りかねることがございます」とこぼします。
藤英は、「主とはそういうもの。その時こそどう付き従うか、そこが家臣の器」だと言います。将軍の家臣としての誇りをもつ藤英に「家臣の器」について説かれた光秀。今後また信長が「計りかねる」言動を見せた時、光秀はどうするのか。
藤英の言葉はかなり響いたようです。「家臣の器」。これも本能寺の変の決断の時、大事なキーワードになりそうですね。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『日本国語大辞典』(小学館)
- 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
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