【福井市立郷土歴史博物館コラボ企画】「朝倉義景の呪い~恐るべき遺言とその後の越前~」
- 2020/12/14
朝倉義景は天正元(1573)年8月20日に自害し、朝倉氏は滅亡します。その際、越前の将来に関わる恐ろしい遺言を遺したという記録があり、今回はその内容に迫ってみたいと思います。
(文=福井市立郷土歴史博物館 学芸員 白嶋祐司)
(文=福井市立郷土歴史博物館 学芸員 白嶋祐司)
義景の最期と遺言
朝倉義景は、天正元年の織田信長による浅井氏攻めに対し、その救援に自ら軍を率いて向かいますが、8月13日の刀根坂の戦い(福井県敦賀市)で大敗してしまいます。その後、少ない従者とともに本拠地の一乗谷(福井県福井市)に帰還しますが、一族の景鏡の勧めで洞雲寺(福井県大野市)に逃れます。しかし、景鏡が裏切り同20日に賢松寺(同)で自害します。
「朝倉始末記」にはその時に詠んだ辞世が記されています。
『七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空』
(現代語訳:苦しみもがいた40年の生涯であったが、結局、空しいものであった。)
辞世からは、彼の無念さが伝わってきます。同書には、彼の自害についてそれ以上のことは書かれていませんが、別の文献には、その際に遺言を遺して自害したと記されています。
『落城ノ時謂従臣曰存念旨趣有之間予ガ遺骸ヲ一乗ノ滝ヱ沈ムベシ悪霊トナリテ富国ノ国主五十代ノ内ハ障碍ヲナシ可申シトノタマエリ』
(現代語訳:義景が落城の時、家臣に“私の遺骸を一乗滝へ沈めよ。悪霊となってこの国(越前国)の国主を50代に渡り害を与える”と申した)
義景は以後越前国の国主になる者を、必ず不幸にすると言って自害したということですが、その後の越前の国主を調べると非常に興味深いことになっています(越前国の大部分を支配した人を対象)。
越前国主の変遷①
国主 | 在任期間 | |
---|---|---|
前波吉継 | 天正元~天正2 | 元義景重臣 一向一揆勢に攻められ戦死。 |
冨田長繁 | 天正2 | 元義景重臣 一向一揆勢に攻められ戦死。 |
一向一揆 | 天正2~3 | 信長軍に攻められ壊滅。 |
柴田勝家 | 天正3~11 | 信長重臣 秀吉との戦いに敗れ自害。 |
丹羽長秀 | 天正11~13 | 信長・秀吉重臣 義景の母、妻子を殺害。51歳で病死。柴田亡霊の祟りともいわれる。 |
丹羽長重 | 天正13 | 長秀の子 御家騒動で改易。 |
堀秀政 | 天正13~18 | 信長・秀吉家臣 小田原攻め中、38歳で没す。 |
堀秀治 | 天正18~慶長3 | 秀政長男 越後春日山に加増転封も慶長11年31歳で没。 |
長谷川秀一 | 天正13~文禄3 | 信長・秀吉家臣 東郷槙山城主。朝鮮陣中で没す。無嗣断絶。 |
小早川秀秋 | 慶長3 | 秀吉家臣 左遷され越前に転封。実質的には代官のみ置く。関ヶ原戦後岡山に移り、21歳で没。無嗣断絶。 |
青木一矩 | 慶長3~4 | 秀吉家臣 関ヶ原戦に東軍で参加するもその翌月病死。 |
朝倉氏滅亡後、江戸時代が始まるまでの領主の変遷をみてきましたが、戦死、早死など不幸が続き、悲惨な状況となっています。“義景の呪い”は確かにあったといえるでしょう。この後は、松平家が国主になりますが、まだまだ不幸は続きます。
越前国主の変遷②
国主 | 在任期間 | |
---|---|---|
結城秀康 | 慶長5~12 | 家康次男 越前福井藩初代。34歳で病死。 |
松平忠直 | 慶長12~元和9 | 秀康長男 大坂の陣で活躍も不行責により改易。 |
松平光長 | 元和9 | 忠直長男 忠直配流後9歳で越前に赴任も、すぐ越後高田に国替え。御家騒動で改易。 (江戸にいるうちに高田へ変わったので3代藩主とするかは分かれる) |
松平忠昌 | 寛永元~正保2 | 秀康次男 49歳で死去 大酒飲みで体を壊したか。 |
松平光通 | 正保2~延宝2 | 妻国姫が34歳で自害。その後気弱になり、延宝2年に39歳で自害。 |
松平昌親 | 延宝2~4 | 母が違う兄の昌勝を気遣い昌勝の子綱昌を養子にした上で2年後に藩主を譲る |
松平綱昌 | 延宝4~貞享3 | 精神病で改易。39歳で死去 |
松平吉品 | 貞享3~宝永7 | 昌親25万石で再封。石高が半分になる |
江戸時代に入っても、前時代に引き続き “義景の呪い” に悩まされていることがわかります。しかし、福井藩 7代藩主松平吉品(よしのり)が、代々不幸が重なるのは朝倉義景の祟りだとどこからか聞きつけ、その対策として朝倉氏の怨念除去とお家の繁栄のため、一乗谷にあり当時は廃れていた古社である春日神社を再興します。
春日神社は平安時代に創建され、朝倉氏も戦勝祈願所とするなど、篤く信仰していました。その敷地内に朝倉氏を祀る滝殿社(たきどのしゃ)を併せて建立し、社の下には御神体として義景の馬具の一部を埋めたと伝わります。
その後、松平家は一門同様に朝倉氏も敬うようになりました。春日神社に伝わる「滝殿社縁起」もこのとき書かれました。縁起では、春日神社の神主が朝倉義景の霊と対面し、国を呪うというのをなだめ、きちんと敬いますので、国の守護神となってくれるようお願いしたと記されています。
朝倉氏信仰を主導した吉品は72歳まで藩主を務め、治世は26年に及んでいます。松平家はその後、無事に明治を迎えることができました。
まとめ
朝倉氏が滅んだ後、不幸がしばらく続いたのは事実です。越前国主は、かなりの確立で不幸な目に遭っていました。それを絶つため、松平吉品が滝殿社を建てて霊を鎮めました。松平家ではそれ以後、毎年一乗谷へのお参りを欠かしませんでした。また、位牌を屋敷内において一族同様にお経を唱えたそうです。現在も、松平家の墓所には朝倉氏も含めて合祀されています。松平家のおかげで義景の呪いは解けて、現在の福井があるのです。
福井市立郷土歴史博物館について
常設展示室では、古代から近代にいたる福井の歴史を、「ふくいのあゆみ」「古代のふくい」「城下町と近代都市」「幕末維新の人物」の 4つのテーマに基づき、分かりやすく紹介。
松平家資料展示室では、福井藩主松平家伝来の歴史資料や美術品などをテーマを変えて展示しています。
屋外展示として、江戸時代の福井城の門「舎人門(とねりもん)」と外堀・土橋・土塁が復元され、江戸時代の雰囲気を体感できます。
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- 福井県福井市宝永3丁目12-1
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