大量に輸出された日本人!?秀吉が奴隷貿易を禁止した背景とは?
- 2020/08/16
「キリシタン」という言葉からはどのような歴史的事柄をイメージするでしょうか。おそらく、日本史においては禁教や弾圧などの悲劇を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
しかし、戦国期などに来日した宣教師や彼らがもたらしたキリスト教とは、当初は比較的良好な関係を築いていたこともまた、事実でした。キリスト教に改宗してその信徒となった「キリシタン大名」も登場し、元来が宗教に寛容とされる日本の文化にも受け入れられつつあったようです。
ところが、全国的には豊臣政権の時代に部分的な禁教令が布告され、やがて宣教師たちの国外退去を命ずるまでに関係性が悪化してしまいます。さまざまな理由が考えられていますが、そのうちのひとつに宣教師たちも関与していたという、日本人奴隷の海外流出が挙げられます。
日本史における「奴隷」という存在はあまり俎上にのぼりにくい話題かもしれませんが、戦における民間人被害の結果として捕らえられたり、飢饉などによる困窮で人身売買の対象となったりした人々はおびただしい数にのぼったと考えられています。
今回はそんな戦国期の人身売買について、特に豊臣秀吉が止めようとした海外への流出に焦点をあてて見てみることにしましょう。
しかし、戦国期などに来日した宣教師や彼らがもたらしたキリスト教とは、当初は比較的良好な関係を築いていたこともまた、事実でした。キリスト教に改宗してその信徒となった「キリシタン大名」も登場し、元来が宗教に寛容とされる日本の文化にも受け入れられつつあったようです。
ところが、全国的には豊臣政権の時代に部分的な禁教令が布告され、やがて宣教師たちの国外退去を命ずるまでに関係性が悪化してしまいます。さまざまな理由が考えられていますが、そのうちのひとつに宣教師たちも関与していたという、日本人奴隷の海外流出が挙げられます。
日本史における「奴隷」という存在はあまり俎上にのぼりにくい話題かもしれませんが、戦における民間人被害の結果として捕らえられたり、飢饉などによる困窮で人身売買の対象となったりした人々はおびただしい数にのぼったと考えられています。
今回はそんな戦国期の人身売買について、特に豊臣秀吉が止めようとした海外への流出に焦点をあてて見てみることにしましょう。
日本人奴隷の組織的な海外流出
戦国時代、戦闘に巻き込まれた地域の人々が略奪などの被害に遭うことが少なくありませんでした。そういった行為を「乱取り(らんどり)」または「乱妨取り(らんぼうどり)」と呼び、食糧や物資だけではなく、人間そのものも対象となりました。そうして捕らえられた人は労働力などの奴隷として売買され、市が立ったことも記録されています。当時の奴隷・人身売買の様子については来日していた宣教師たちも報告書で言及しており、『日本史』で知られるルイス・フロイスも九州での薩摩と豊後の事例を書き残しています。
そこには売買の対象となった人たちが残酷な扱いを受けていること、そして肥後で海外に向けて売られていくマーケットができていたことなどが伝えられています。
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マカオにいた日本人奴隷
当時のイエズス会などは奴隷売買を容認しており、神父の中には日本国内で過酷な境遇に置かれるよりも、同じ奴隷でも海外で優遇を受けてキリスト教の教義を授かることの方がよいという考え方も実際にあったようです。そのことについての是非を論じるのは難しいことですが、当時の主要な購入主であったポルトガル系の富裕層が、澳門(マカオ)において多数の日本人奴隷を使役していたことがわかっています。
特に女性が多くポルトガル植民地にいたことが知られ、現地で自由の身になって家庭をもち定住した人もいたといいます。また、男性の奴隷は勇猛で知られ、いわゆるボディガードのような役を多く務めたとされています。
奴隷として売買された日本人男性は士分ではなかったと考えられますが、和装で帯刀していた者もおり、ポルトガル語には「catana」という単語が早くから取り入れられたようです。
戦国を過ぎたころではありますが、1637年にマカオを訪れたイギリス人のピーター・マンディが残したスケッチには、着物姿に草履履きで髷を結い、大小二刀を携えた日本人男性の姿が描かれています。
彼らのことを「武装侍従」と表現する論文もあり、比較的行動の自由が認められていたようで私闘やトラブルが頻発したため、1586年には当地の法令で日本人奴隷の単独時での武装が禁じられています。違反者には厳罰が課せられ、後にそれは極刑へと変更されましたが、武器携行の歯止めにはならなかったとされています。
このようにポルトガル植民地のマカオでは、日本人奴隷の存在が日常の風景になるほど浸透していたのです。
海外との奴隷貿易を厳禁した、豊臣秀吉の政策
日本におけるキリスト教の伝来は、天文18年(1549)のフランシスコ・ザビエルの鹿児島への上陸に始まるというのが定説です。その後、幾人もの宣教師たちが来日し、永禄3年(1560)にはガスパル・ヴィレラが室町13代将軍・足利義輝から京までの布教を許可されています。しかし天正15年(1587)、豊後の大友宗麟の要請を受けて九州征討に赴いた豊臣秀吉は、準管区長のガスパール・コエリヨらにキリスト教布教に関する問題点を4か条にわたって詰問しています。
その最後で日本人奴隷の人身売買、特に海外への売却を糾弾しており、『天正十五年六月十八日付覚』では「大唐」「南蛮」「高麗」への売却を例に挙げて日本人奴隷の取引を禁止する布告を出しています。
同日に出されたのが有名な「伴天連(バテレン)追放令」であり、宣教師らに対してこれより20日以内での国外退去を命じるという厳しい処断となりました。
キリスト教には比較的柔軟な姿勢をとってきた歴史がありますが、秀吉の政策は布教を名目にしたポルトガルの植民地化政策への警戒心の表れとも考えられています。
実際には1571年の段階でポルトガル国王セバスティアンにより、日本人奴隷の売買禁止が布告されていましたが、ほとんど効力はありませんでした。本格的にそれが徹底されたのは伴天連追放令の後、1589年のことで、宣教師ヴァリニャーノと日本主教セルケイラがポルトガル人による日本人の売買を禁止しています。
おわりに
一説にはポルトガル人が主導して海外へと売られた日本人は、およそ5万人にのぼったと推計されています。しかし秀吉の伴天連追放令は厳しい内容ながらも、信仰とポルトガルとの交易そのものを禁じたわけではない点も明記されていました。いずれにせよ、当時の日本では国際問題に発展するほどの大量の奴隷が存在したということに注意が必要です。
【参考文献】
- 「明代における澳門の日本人奴隷について」『東アジア文化交渉研究 第6号』 孔穎 2013
- 「宣教師の見た日本―キリシタン時代の資料をもとにして―」『佛教文化学会紀要 1998巻 7号』柳堀素雅子 1998 佛教文化学会
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