戦国時代、兵糧は戦場で大事なエネルギー源だった!
- 2019/01/16
関ケ原の戦いはたった6時間で勝敗が決まったなんていいますが、戦国時代の合戦は短時間で終わるようなものばかりではありません。数か月かかるような戦いもありました。戦場で戦い続けるために欠かせなかったのが兵糧です。
戦に欠かせない兵糧
戦をすることが決まったら、兵や武器、武具、馬をそろえるのはもちろん重要ですが、戦場で兵士が食べる食料の準備も大事でした。いつ決着がつくともわからない戦なので、兵士の体力が尽きてしまっては元も子もありません。野戦であれば比較的早く決着がつきますが、城攻めなどの場合、数か月から半年程度かかることも珍しくありません。長期戦の場合は食料の備蓄こそが勝敗を分けるカギになるのです。
役者(やくもの)が必要な兵糧を計算した
兵糧の確保は「だいたいこれくらいでいいだろう」という目算では絶対に失敗します。戦で構成される組織には、武将、武士、夫役(ぶやく/労役を課せられた兵士)のほか、役者という役割がありました。兵糧はこの役者が計算して用意させていました。役者とは
役者とは、戦場で役に立つ能力をもった専門家たちのことで、料理人や医者、忍者集団、絵師、主教人、算盤使いなどがありました。戦は実際に指揮する武将と武士、兵士だけで行われるのではなく、見えないところでこうした後方支援を行う者たちがいたのです。兵糧確保に携わるのはこのうちの算盤使いです。計算に長けた専門家で、戦に出る人員の数、出陣の期間、合戦場までの距離などの数字から必要な兵糧の量を割り出し、その量から最適な運搬方法や手配場所まで決めました。
兵糧の備蓄
戦国時代の戦は集団戦が主流になり、動員数もそれ以前の時代に比べて規模が大きくなっていきました。たとえば、関ケ原の戦いは国の天下を争う戦いなので大規模です。徳川の東軍は約7万5千、石田の西軍は約8万程度であったとされています。それよりも多いのが、秀吉による小田原攻めです。
北条を攻めるために集めたのはなんと20~25万人あまり。秀吉がそのすべての兵糧を管理したわけではありませんが、それでもおそらく10万人超の兵糧を確保するよう指揮したと思われます。これは戦の際に設置される兵糧奉行が取り仕切りました。
兵糧は戦時に供えて城で備蓄するものですが、城の規模や役割によっても備蓄量は異なります。籠城することになれば勢力の要となる本城や有力な城に兵糧が集められました。
兵に配られる兵糧
戦時は、兵士がそれぞれ自分の兵糧を携帯するようになっていました。『雑兵物語』によれば、1日当たりの量はだいたい一人米六合前後、水一升、塩一勺、味噌二勺であったといわれますが、それを数日分持つだけでも荷物が多くなります。兵士は3日分の兵糧を携帯していたといわれています。短期間の戦であれば数日分の兵糧でも十分ですが、数日以上にわたる戦を想定している場合はすべてを持ち運ぶのは不可能です。必要な兵糧を携帯したところで邪魔になるだけ。長期化する際は兵糧奉行が指揮し、戦場に小荷駄隊を引き連れて兵糧を運搬しました。
腰兵糧
そのようにして戦場に持参する兵糧は「腰兵糧」と呼ばれました。兵士たちは城主から数日分の兵糧を支給されて腰に提げ、道中や戦場で食べていたようです。では、腰兵糧の中身にはどのようなものがあったのか少し紹介しましょう。兵糧丸(ひょうろうがん)
兵糧丸は携帯しやすいように丸薬のように丸めた保存食で、忍者が食べる携帯食としてよく知られていますが、戦時においては兵士も口にした食べ物です。家によって材料や作り方は異なりますが、だいたいは以下のようなものが入っていました。- 【炭水化物】米、そば粉、大豆、くず粉、きび粉
- 【たんぱく質】豆、魚粉
- 【食物繊維やミネラル】梅干し、松の実、ごま
その他、植物油を加えてビタミン補給をし、はちみつや酒なども加えたようです。現在では忍者食として『伊賀流兵粮丸』という商品が販売されていたりしてどのような味だったのか知ることができますが、決して不味いものではなく、入れるものによっては香ばしく食べやすい食べ物だったようです。
兵糧丸は栄養補給と腹を満たすもので、いわばバランス栄養食、カロリーメイトのような食べ物でした。兵士はこれを一食に数粒程度摂取した(大きさにもよる)といいます。
干飯(ほしいい)
これは天日干しで乾燥させた米のことで、戦時だけでなく日常からよく食べられていた主食です。米の水分が飛んでいるので軽く、握り飯を持ち歩くより楽でした。水かお湯で戻す手間はありますが、少量でもお腹が膨らむアイテムでした。焼飯(やきめし)
生米(糠がついたもの)をそのまま炒ってカラカラにしたもので、スナック感覚で食べられる簡単な食料です。干飯同様軽量でありながら、こちらは水で戻す必要もないので歩きながらでも食べられました。合戦が開始されるまでは普通の食事を摂ることができますが、戦が始まると満足な食事を摂る時間も場所もありません。携帯できる兵糧は食事らしい食事ではなく、おいしさよりも腹を膨らませることが重視されましたが、兵士たちはこの腰兵糧を持ち歩くことでエネルギーを補給していました。
【主な参考文献】
- 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)
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