火縄銃は命中率が悪かったというけど?実際の威力はどれほどのものだったのか?

火縄銃は長距離には向かず、命中率が悪く威力がなかったといわれることがありますが、当時の基準で見ればぜんぜんそんなことはありません。日本に伝わり、そして発展していった火縄銃はかなり高性能な鉄砲でした。

戦国期の火縄銃の威力

戦国時代に使われていた火縄銃は、先込め式の近代の銃(たとえばミニエー銃のようなライフル銃)に比べると確かに威力や精度は劣るでしょう。

弾丸に回転を加える近代式の銃は狙いをつけた点に安定して飛びやすいですが、球体の弾丸を込めただけの火縄銃はぶれやすく、狙いを定めて使用するとしたら、有効射程距離はせいぜい100~200mほどであったといわれています。しかし、それでも日本の火縄銃は当時にしては優秀な銃であったと考えられます。

火縄銃の分類は、弾丸の重さと流派によって分けられます。ここでは弾丸の重量・サイズから少し紹介しましょう。火縄銃は、弾丸が大きくなるほど威力も大きくなります。

小筒

口径が二匁前後の銃です。最も小さい部類なので威力は低いですが、当時よく使われていたものです。朝鮮出兵の折に用いられたのもこの小筒でした。

長篠の戦いで使われたと思われる弾丸は合戦の舞台となった設楽原から出土していますが、弾丸のサイズから口径は三匁前後であるため、小筒だと思われます。武田側の死傷者が1万人以上とされていることから、これくらいの威力の火縄銃であっても十分な殺傷能力があったと考えられます。

中筒

六匁前後の口径の銃です。小筒よりも大きく威力は増しますが、高価で扱いは難しかったとか。小筒はそれほど扱いに慣れていない兵への支給銃として使われましたが、この中筒はある程度銃の扱いに長けた兵が用いました。この程度の銃であれば鎧も貫通したでしょう。

大鉄砲(大筒)

二十匁以上の口径の銃です。百匁以上のものもあったとか。この規模になると手で持って扱い人を狙うことはできません。陣形を崩したり、城門破壊などに使用されていたと考えられます。

実は最新式だった


火縄銃は、引き金をひくと火挟みが落ち、火皿の導火薬に着火して弾薬に引火し、弾薬を発射させます。いかに早く火薬に引火させるか、それが威力を発揮するカギになるのですが、当時日本で使われていた火縄銃(和銃)は瞬発的に点火できる毛抜き式弾機使用していました。この種類の火縄銃を「瞬発式火縄銃」と呼びます。これにより、実戦で動く相手にも照準を合わせて発砲することができたのです。

瞬発式の火縄銃は火縄銃を作ったヨーロッパにもありました(フリントロック式銃)が、短い期間しか使用されませんでした。それが東南アジアに伝わり改良されて「マラッカ式」の銃を生み出し、日本に伝えられたといわれています。

鉄砲伝来はヨーロッパから、というイメージが強いですが、実はヨーロッパから直接もたらされたのではなく、東南アジアの植民地に定着していた南蛮人経由でもたらされたものと考えられています。

そのころヨーロッパでは瞬発式ではなく緩発式火縄銃が使用されていました。引き金を引いてから発砲されるまでタイムラグがあるタイプでしたが、ヨーロッパの戦い方ではあまり瞬発力が重視されなかったため、緩発式火縄銃で十分であったのだそうです。

単純に性能を見れば、日本の火縄銃は最新式だったのです。

同時代のヨーロッパと比較しても所有数は多い

火縄銃が伝えられたのは天文12年(1543)のことですが、わずか数十年の間に国内で製造・改良するようになり、武器として定着しました。驚くべきはその所有数です。

信長が火縄銃を大量に購入し、長篠の戦いで3000挺も用意した(諸説あり)とか、肥前の大名・龍造寺隆信が3000~4000挺用意した(ルイス・フロイス『大日本史』による)とか、安土桃山時代には各大名単位で大量の火縄銃を所有していたことがわかります。

同時代、エリザベス女王が統治していたイングランドでは、国家全体でも信長より少なかった(1589年出兵の折は1000挺程度)のだとか。

合戦の主力武器となっていった

火縄銃はもたらされてから数十年の間に日本で定着し、戦での主力武器になっていきました。それまで戦の主力だったのは弓矢や鑓(やり)でしたが、天正年間末ごろには鑓よりも重視されるようになります。

鉄砲隊が組織されるようになり、それに合わせて戦の規模も大きくなっていきました。弓矢と同じく遠距離から攻撃できる飛び道具として重宝されましたが、火縄銃の有効射程距離は200m程度。それよりも距離が長くなる場合はまだ弓矢のほうが命中の精度が高かったため、この二つの武器に関しては距離によって使いわけされていたようです。

火薬

いくら銃が上等といっても、火薬がよくなければ何の意味もありません。火縄銃に使用される黒色火薬は塩硝が80%、木炭が10~12%、硫黄が8~10%の割合で配合されています。

火薬に使用される材料のうち、硝石は国内では手に入らず、輸入に頼っていました。火薬の扱いは難しく、室町幕府将軍家もその秘伝を手に入れようと苦労したようです。


【主な参考文献】
  • 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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