鉄砲三段撃ちはウソ!?長篠の戦いの真実とは

撃つまでに時間がかかるのがネックの火縄銃。信長は長篠の戦いにおいて、三段撃ちを考案して武田軍を破ったというのが長い間定説でしたが、今やそれは後世の創作であるとされていますね。

長篠の戦いというと、この鉄砲三段撃ちばかりが有名で、実際の戦場の状況がどのようだったのかはあまり掘り下げられることがないように思われます。実は、鉄砲三段撃ちに使われた火縄銃の数すらどの程度だったのかあまりはっきりしていないのです。

本記事では、鉄砲三段撃ちの戦法を含め、長篠の戦いにおける鉄砲の数や戦法に使われた馬防柵がどの程度の規模であったのかを紹介します。

長篠合戦と鉄砲

長篠の戦いは、天正3年(1575年)5月21日に起こった、三河国長篠城をめぐる織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼軍の合戦です。

それぞれの戦力は、織田・徳川の連合軍が38000(72000説など諸説あり)、武田軍は15000(こちらも25000など諸説あり)といわれています。

『長篠合戦図屏風』(徳川美術館 蔵)
『長篠合戦図屏風』(徳川美術館 蔵)

信長による鉄砲の戦法でよく知られる戦いですが、日本で初めて鉄砲が用いられたというわけではありません。鉄砲伝来は天文12年(1543年)とされており、そこから長篠の戦いまでには30余年の開きがあります。

天正年間のころは、日本に鉄砲が伝えられてようやく戦の主力武器が鉄砲になりはじめたころでした。

鉄砲の数はどのくらいか?

通説では、織田・徳川連合軍は3000挺の鉄砲を用意して武田軍に勝利したとされています。武田の騎馬隊に対して(※武田騎馬隊も後世の創作とされていますが)鉄砲の大量投入で勝利したことがフィーチャーされており、騎馬隊 VS 鉄砲隊という印象が強いですが、武田軍も鉄砲を用いていました。

織田・徳川軍

織田・徳川方の用意した鉄砲の数にも諸説あります。

よく知られているのは3000挺ですが、『信長公記』によれば信長の御馬廻の鉄砲が500挺、決戦の場での数は1000挺であったとされています。これを単純に足すのも不自然ですが、この記録のとおりだったとすると多くて1500挺だったことがわかります。これを織田軍だけの数ととらえても、徳川軍の鉄砲がどの程度あったかは定かでないためはっきりした数はわかりません。

『信長公記』を記した太田牛一が佐々成政、前田利家、福富秀勝、野々村正成、塙直正以外に配った鉄砲の数を把握していなかったことも考えられるため、1500挺よりは多かった、と見るのが妥当です。

武田軍

これに対し、実は武田軍も500挺ほどの鉄砲を用意していたとされています。連合軍と比べると少ないですが、最新の武器を備えた敵に従来の武器と騎馬隊のみで立ち向かったわけではありませんでした。

馬防柵を設置した狙いは?

戦場において敵軍の通過を防ぐ目的で使われる馬防柵。中世は「尺木(さかもぎ)」と呼ばれた柵で、城攻めの攻防でよく用いられました。織田・徳川連合軍は長篠城の西にある設楽原に陣を構え、およそ20町(2.2kmあまり)にわたって馬防柵を二重、三重に設置しました。

再現された馬防柵
再現された馬防柵

なぜ信長がこの戦法に出たかというと、武田軍の騎馬隊の通過を防ぐためだけでなく、馬防柵を設置することでこちらが弱腰であるかのように見せ、武田軍の突進を誘うためだったとされています。

見事引っかかった武田軍は馬防柵に向かってもう突進し、連合軍が配備した最強の鉄砲三段撃ちによってとめどなく砲撃されてしまった、というのがかつての通説でした。しかし、鉄砲三段撃ちが創作であったとするならば、馬防柵を二重三重に構える必要性がないように思えます。さらに付け加えますが、武田騎馬隊もなかったという説を採用すればなおさらです。

ただ、騎馬隊がなかったというのも一説に過ぎないので、信長が騎馬隊の攻撃を危惧していたことも考えられます。そうであったならば、やはり馬防柵はあったのかもしれません。鉄砲三段撃ちがウソであっても、鉄砲が1500挺以上あるだけで十分な戦力になったでしょうから。

鉄砲三段撃ちの話はどこから?

最後に、鉄砲三段撃ちの説がどこから出てきたのかを紹介しましょう。

『信長公記』に記録は残っていない

織田信長に関する歴史を知る一次資料のひとつが『信長公記』です。

鉄砲の数の項目でも参照しましたが、この史料にはそういった情報はあっても、鉄砲三段撃ちについては記されていません。実際に長篠の戦いの様子も記されていますが、その内容が記録されないため信ぴょう性に欠けるのです。

江戸時代初期に書かれた『信長記』から始まった説だった

ではどこから出てきたのかというと、儒学者である小瀬 甫庵(おぜほあん)が著した『信長記』(甫庵信長記)です。
この書物は『信長公記』を参照しながら自己流に創作したものとされており、価値のある一次史料とされる『信長公記』に比べると誤りの多さが目立ちます。

刊行当時から誤りが指摘されていたようで、信用に欠ける書物(読み物としてはおもしろいのですが)だったのですが、どういうわけかこれが定説として根付いてしまったのでした……。


【主な参考文献】
  • 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦 校注『信長公記』(角川ソフィア文庫、1969年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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