「尻垂坂の戦い(富山城の戦い、1572年)」上杉軍vs北陸一向一揆連合!語り継がれる凄惨な消耗戦の記憶
- 2021/08/05
上杉謙信の晩年にかけての軍事行動は、将軍を補佐して織田信長包囲網を完成させるための、上洛ルートの確保が主な目的だったともいえます。政情不安が続いた北陸諸国の制圧と、宿敵ともいえる甲斐武田氏へのけん制も必要でしたが、その途上にはやはり多くの勢力が立ちふさがりました。諸大名や各地の有力国人層はもちろんですが、北陸にまたがる一大勢力「一向一揆」も強大な壁となっていたのです。
今回は元亀3年(1572)に起こった、上杉謙信軍と越中・加賀の一向一揆連合との決戦である「尻垂坂の戦い」またの名を「富山城の戦い」にフォーカスしてみましょう!
今回は元亀3年(1572)に起こった、上杉謙信軍と越中・加賀の一向一揆連合との決戦である「尻垂坂の戦い」またの名を「富山城の戦い」にフォーカスしてみましょう!
- 上杉謙信は時代とともに様々に名を変えていますが、本コラムでは混乱を避けるため「謙信」で統一します。
- 「尻垂坂」の地名は現存せず、当地で決戦があったことを裏付ける一次史料は見つかっていません。ここでは伝承にしたがって「尻垂坂の戦い」の呼称を用いています。
- 「一向宗」の呼称は時代とともに定義が変わるため、本コラムでの武装した教団勢力は「一向一揆」として統一しています。
合戦の背景
一向一揆との長年の対立
そもそも越前・加賀・能登・越中などの北陸道諸国は、一向宗が強固な地盤を持つ土地として知られてきました。謙信の祖父・父の時代から同様であり、特に越後に境を接する越中の一向一揆とは度々武力衝突を繰り広げてきました。大坂・石山本願寺の例でもわかるように、信仰という強い絆で団結した勢力は戦国大名に比肩するほどの武力をもっていました。北陸で特に力をもった加賀・越中の一向宗も同様でした。
自治・自衛のための武装は当時の寺社勢力では一般的なことでしたが、一向一揆では殊に大量の鉄砲を装備していたことが知られています。このように強力な武装教団が、謙信の上洛ルート上に立ちふさがるという状況が現出したのでした。
戦に至る経緯
尻垂坂の戦いに至る直接の経緯は、武田信玄の上洛にあたってその背後の脅威を除くため、謙信の動きをけん制する任務を北陸の一向一揆に要請したことに始まります。元亀2年(1571)4月、武田勝頼から北陸方面一向一揆の将であった「杉浦玄任」に書状を送り、謙信軍の足止めを依頼しました。信玄も石山本願寺の「顕如」にあて、越中の一向一揆による対謙信の軍事行動を要請。これにより、翌元亀3年(1572)に杉浦玄任率いる加賀一向一揆が挙兵、越中一向一揆の拠点寺院であった勝興寺と瑞泉寺が呼応し北陸の一向一揆連合ともいえる兵力が形成されました。
一向宗の総大将・杉浦玄任
さて、ここで尻垂坂の戦いにおいて一向一揆方の総大将であった杉浦玄任について、簡単にプロフィールを確認しておきましょう。玄任は武将でしたが本願寺の坊官であり、「法橋」の僧位をもっていました。永禄10年(1567)の加賀一向一揆による越前進攻にも従軍しており、朝倉義景と戦っています。元亀元年(1570)の織田信長による石山本願寺退去の勧告に対しては徹底抗戦を主張し、武闘派として知られていました。
富山城のスペックと謙信時代の状況
尻垂坂の戦いで一向一揆方が拠点としたのが「富山城」です。現在イメージされる近世城郭としての姿とは異なるため、当時の富山城についても概観しておきましょう。富山城は現在の富山市に所在した平城で、越中平野のほぼ中央部を流れる神通川、そして鼬川の間の平坦地に位置していました。築城は天文12年(1543)頃のこととされていますが、その地の戦略的重要性は古くから認識されていたようです。
西の神通川を搦手として二重の堀を有していたと考えられており、文献には3500軒ばかりの家数も記載されているため城下町が発達していたことがうかがえます。
謙信の時代には「神保氏」が城主を務めていましたが、越中の権益をめぐる戦いの中で度々富山城を追われています。
合戦の経過・結果
強力な鉄砲隊を有した一向一揆との激戦
話を戻しましょう。元亀3年(1572)、一向一揆連合は東進して現在の富山県射水市下条にあった火宮城(日宮城)を攻略。一揆勢はそのまま富山城をも占拠し、ここを拠点として陣を張り、越中の有力国人などの合流も得て、最終的には3万ともいわれる大兵力に成長。上杉軍は苦戦を強いられていました。謙信は多方面への対処のため越中に出馬することができずにいましたが、劣勢の戦況を鑑み関東への出陣を中止。同年8月18日に約1万の上杉本体を率いて越中に着陣します。新庄に陣を張り、富山城周辺数か所に向城を築城して一向一揆本拠の包囲態勢を整えます。
それまで劣勢だった上杉軍は謙信の増援により兵力を回復、一揆方とのパワーバランスは拮抗することとなり、攻防は一進一退の伯仲戦の様相を呈しました。一揆方首領の杉浦玄任もこの事態を重く受け止め、加賀方面の一向一揆首領に向けてさらなる派兵を要請しています。
一向一揆の勢力が精強であったのは、信仰による迷いのない団結ばかりではありませんでした。謙信がもっとも警戒したとされるのは、大量の鉄砲を配備していた点にあるとされています。石山本願寺や紀州の傭兵集団「雑賀衆」の例からもわかるように、教団と鉄砲隊とが結びついた兵力は戦国大名を脅かすほどの強力なものでした。
鉄砲は銃本体だけではなく、弾丸や炸薬となる火薬の調合など大量の資材と繊細な専門技術が必要な兵器です。一向一揆の勢力はそれらを安定して供給するルートと、技術者の集団も擁していたと考えられるでしょう。一定の訓練をほどこせば一般人でも銃手として強力な戦闘員となり、信徒による数の力も一向一揆の強さを支えていました。
同年8月31日の瑞泉寺からの書状では、夜間に銃撃戦があったことを伝えており、戦闘の激しさを物語っています。
失われた地名ながら、激戦の記憶が語り継がれる尻垂坂
その後、同年9月17日までの間に両軍の間に決戦があり、これが「尻垂坂の戦い」と呼ばれているものです。現在では尻垂坂という地名は残っておらず、その旧跡に供養塔して建てられたという石造物も調査の結果、それより古い時代のものであることが判明し、詳細は不明となっています。富山城と新庄城の間に尻垂坂があったといい、両軍の死傷者が流した血で川が赤く染まったという凄惨な伝承が残されています。
攻城戦でのセオリーをもとに推測すると、上杉軍に包囲された富山城は徐々に消耗し、やがて食糧・弾薬ともに底をつき援軍も近付けない状況に追い込まれたのではないでしょうか。城を打って出ての戦闘ということであれば、最終手段としての捨て身の白兵戦が展開されたことも予想されます。
いくつかの書状では戦況報告に食い違いがありますが、同年9月17日未明に一向一揆勢は富山城を放棄して火宮城方面に撤退を開始。上杉軍は周辺の一揆方拠点を攻略しつつ、10月1日にはついに富山城を落城させます。
戦後
この尻垂坂の戦い以降、北陸の一向一揆は勢力を弱体化させていきます。翌元亀4年(1573)、一向一揆方からの提案を受け入れる形で和議を結び、ここに謙信の越中での権益掌握への道筋が一応の成就をみました。しかしその後も散発的な戦闘が続き、これらを撃破しつつ次の能登国掌握へと軍事行動を展開していくことになります。
謎の部分が多い尻垂坂の戦いですが、終わりの見えない消耗戦は凄惨な様相を呈したことがうかがえます。もはや正確な場所はわからないながらも、その悲しい記憶が確かに語り継がれる戦だったことが、さまざまな伝承に刻み込まれているようです。
【主な参考文献】
- 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『歴史群像シリーズ 50 戦国合戦大全 上巻 下剋上の奔流と群雄の戦い』 1997 学習研究社
- 富山県民生涯学習カレッジ 6.尻垂坂(富山市西新庄)
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