【長野県】飯田城の歴史 戦国期は信濃国下伊那の拠点として機能。江戸時代には飯田藩の藩庁が設置
- 2022/05/19
信濃国伊那谷南部の拠点として、下伊那で唯一江戸時代まで残ったのが飯田城(いいだじょう)です。武田信玄、織田信長、徳川家康など多くの群雄がこの飯田城を奪い合っています。
はたしてこの飯田城はいつごろ建てられ、どのような人物が城主を務めてきたのでしょうか?今回は飯田城の歴史についてお伝えしていきます。
はたしてこの飯田城はいつごろ建てられ、どのような人物が城主を務めてきたのでしょうか?今回は飯田城の歴史についてお伝えしていきます。
当初は修験者の行場だった?
現在の長野県飯田市追手町にあった飯田城。この城の築城時期は史料が残されていないため、残念ながらわかっていません。言い伝えによると、室町時代に飯田の郷主を務めていた「坂西氏」が、修験者の行場だった場所に城を構えたとあります。坂西氏については、信濃守護である小笠原氏の一門という説の他、阿波国近藤氏の一門という説がありますが、こちらも史料が残されておらずはっきりとはわかっていません。どちらの伝承でも、愛宕神社を飯田城にしている点は共通しています。飯田城の本丸奥が山伏丸と呼ばれているのはそのためです。
詳細がはっきりとするのは天文23年(1553)のことで、この時点では飯田城をはじめ、下伊那は武田氏の支配地となっています。
武田信玄は下伊那の拠点として大島城と飯田城を整備しました。飯田城の城主だった坂西長忠は永禄5年(1562)に小笠原氏の領地に攻め入り討たれており、その後は秋山虎繁(信友)が城代として飯田城に入城しました。元亀4年(1573)には虎繁が岩村城に移ったため、長忠の弟・坂西織部亮が替わりに入城しています。
天正10年(1582)に織田信長の軍勢が侵攻してくると、下条氏や小笠原氏が相次いで降伏。2月14日には梨子野峠より織田軍が攻め寄せてきたため、城将の織部亮と保科正直は城を捨て退却。3月11日に武田氏を滅ぼした信長は、3月15日に飯田城に入り、武田勝頼父子の首級を城下にさらしています。そして信長は飯田城を毛利秀頼に与えました。
飯田藩の藩庁
同年6月に本能寺の変が起こると、飯田城は旧武田氏家臣や徳川勢、北条勢、上杉勢らによる奪い合いとなります。下伊那で勢力を拡大した下条信氏は飯田城を抑え、徳川家康に臣従したため、上伊那や諏方方面まで拡大してきた北条勢と戦いとなります。信氏は8月に飯田城に籠城。10月には徳川氏と北条氏が和睦したため、交戦は終了しましたが、信氏が私戦で小笠原氏と争って敗れ、さらに陣中での不始末もあって追放されてしまいます。
替わって飯田城に入ったのが、下伊那郡代を命じられていた菅沼定利です。定利は天正14年(1586)に飯田城に移り、城郭の整備を始めました。
しかし飯田城の城主は目まぐるしく変わっていきます。
天正18年(1590)、家康が豊臣秀吉の命で関東へ国替えとなったため、飯田城は再び毛利秀頼が伊那10万石の大名として城主を務めることになり、三の丸や追手門、本町といった城下町を整備しました。
文禄2年(1593)、秀頼が亡くなったため、娘婿の京極高知が飯田城城主を継ぎ、城下町をさらに整備し続け、文禄5年(1596)には碁盤の目のように町屋を町割りし、さらに城下町を惣堀で囲っています。
慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いが起こり、徳川方が勝利すると、徳川方に与した高知は丹後一国を与えられたため、飯田城には小笠原秀政が入ります。慶長18年(1613)に初代松本藩藩主として松本へ秀政が移ったため、飯田城はしばらくの間は幕府直轄地として小笠原氏の家老が在城しています。
元和3年(1617)に脇坂安元が飯田藩主となって飯田城に入っています。城下町の惣構えが完成したのはこの時期で、脇坂氏はさらに伝馬町や惣構えの外に桜町を整備しました。この地は三州街道、遠州街道、大平街道、伊那街道の起点であり、出馬千匹入馬千匹と呼ばれるほどの賑わいを見せ、また脇坂氏によって茶道や和菓子作りなどが盛んになり今に受け継がれています。
寛文12年(1642)、脇坂氏の統治は2代で終了し、安元の跡を継いだ脇坂安政は播磨龍野へ移封となり、初代龍野藩主となりました。替わって下野烏山より堀親昌が新しい藩主として飯田城に入っています。堀氏の統治は明治維新まで続きます。宝暦3年(1753)には桜丸御門(別名:赤門)の工事が始まり、翌年に完成しました。
廃藩置県後は徹底的に破壊される
明治維新後、堀氏が佐幕派だったこともあり、新政府により飯田城は徹底的に破壊され、桜丸御門以外は解体されたか、移築されてしまいました。桜丸御門以外の遺構は石垣の一部と堀の痕跡だけで、部分的な発掘調査が行われ、武田氏時代のものと考えられる建物跡などが見つけられています。本丸跡は明治13年(1880)に長姫神社の境内が置かれ、二の丸跡には大正10年(1921)に飯田長姫高校が建設されました。
平成元年(1989)には飯田長姫高校が移転し、飯田市美術博物館となっています。なお昭和60年(1985)には桜丸御門の大改修が行われ、飯田市有形文化財に指定されました。
他に移築されて現存する建物としては、二の丸御門だった八間門が民家に、城門が経蔵寺山門に、馬場調練場の門(脇坂門)などが挙げられます。また、飯田藩初代藩主の脇坂安元は桜好きで有名であり、樹齢400年を超える20メールの夫婦桜が桜丸御殿跡に残されています。
おわりに
時には武田氏の拠点として、またあるときは徳川氏の拠点として下伊那の領土を支え続けてきた飯田城。城郭が残されているわけではないものの、長姫神社や桜丸御門のある合同庁舎、夫婦桜など、群雄割拠の戦国時代の歴史を感じることのできる貴重な場所のひとつです。補足:飯田城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
天文23年 (1553) | 武田氏が下伊那を制圧し、飯田城を整備。飯田城主は坂西長忠 |
永禄5年 (1562) | 長忠が戦死し、秋山虎繁が城代となる |
元亀4年 (1573) | 虎繁が岩村城に移り、飯田城には長忠の弟である坂西織部亮が入る |
天正10年 (1582) | 2月:侵攻してきた織田の軍勢が飯田城を落とす。織部亮と保科正直は城を捨て退却 3月:織田信長が飯田城に入り、武田勝頼父子の首級を城下にさらす。城主には毛利秀頼が就く 8月:本能寺の変後は、下条信氏が徳川方に味方し飯田城に籠城して北条方と対立 |
天正14年 (1586) | 下条氏が陣中の不始末により追放され、下伊那郡代の菅沼定利が飯田城に入り整備 |
天正18年 (1590) | 家康が関東に国替えとなると、秀吉家臣の毛利秀頼が再び城主となり、城と城下町を拡大 |
文禄2年 (1593) | 秀頼が亡くなり、娘婿の京極高知が城主となる |
文禄5年 (1596) | 碁盤の目のように町割りし、城下町全体を惣堀で囲う |
慶長5年 (1600) | 関ヶ原の戦いの後、小笠原秀政が飯田城に入る |
元和3年 (1613) | 脇坂安元が城主となる。城下町の惣構えが完成。伝馬町、桜町も新たに整備 |
寛文12年 (1642) | 脇坂氏が播磨龍野へ転封。下野烏山藩の堀親昌が城主となり、幕末まで続く |
宝暦3年 (1753) | 桜丸御門(赤門)工事開始、翌年完成 |
明治13年 (1800) | 本丸跡が長野神社の境内となる |
大正10年 (1921) | 二の丸跡に飯田長姫高校が建設される |
昭和60年 (1985) | 桜丸御門の大改修。飯田市有形文化財に指定される |
平成元年 (1989) | 飯田長姫高校の移転後、飯田市美術博物館が設置される |
【主な参考文献】
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