名将・武田信玄の最期とは?死因とされる諸説をご紹介

 江戸幕府を創設し天下を治めた徳川家康ですが、かつて秀吉と対立したときには重臣の寝返りに遭い、軍制を大きく変更しました。そのときに採用したのが武田信玄の軍制でした。家康にとって信玄は、自領を侵す最大の脅威でしたが、それ以上に学ぶ点が多く、尊敬すべき英雄だったのです。

 天下統一も不可能ではなかった信玄は、いつ、どのような理由で亡くなったのでしょうか? そこには今も多くの謎が隠されています。

反信長連合の中心人物だった信玄

 織田信長の傀儡と化していた室町幕府最後の将軍・足利義昭の要請もあって、甲斐国や信濃国に巨大勢力を築いていた戦国大名・武田信玄が西上作戦を開始したのが、元亀3年(1572)10月のことです。

 甲府を進発した信玄は、隣国・徳川家康の領土に侵攻していきます。劣勢だった家康は浜松城に籠城するものの、包囲せずに西上を続けようとする信玄に対し、12月には城を出て三方ヶ原で激突。家康は大敗を喫しました。

 この勝利の報を聞いて信長包囲網に加わっている本願寺や浅井氏は勢いづきますが、朝倉義景は疲労などの理由で近江から撤退します。信玄は出兵を求めたものの、義景は動かず、そのため信玄は遠江国刑部で進行を止めて年を越しました。

 元亀4年(1573)には再度、三河国へ侵攻を開始し、同年2月には野田城を包囲し陥落させています。信玄はこの戦況を本願寺の当主である顕如に報告し、義景の出陣要請を依頼しました。何事も用意周到な準備をし、戦わずとも勝つ戦略を重要視していた信玄としては、義景を動かし勝利を盤石なものにしたかったのでしょう。

 将軍・義昭のもとにいる東老軒(常存)にも信玄は書状を送り、義景の動きに合せて信玄も動く旨を伝えています。義昭は信玄の上洛成功を確信していたことでしょう。

帰国途中で無念の死

 信長と不和となり、水面下で反信長勢力を結集させていた義昭は、信玄上洛が近いことを知り、近江国の幕臣や伊賀や甲賀の国衆、一向一揆衆に籠城を指示しています。『細川文書』によると、信玄の実父である武田信虎が、近江国甲賀に滞在して、軍勢の招集を行っていたようです。

 このまま信玄が西上作戦を続行していたら、おそらく信長はその勢いを止められず、信玄の上洛を許していたことでしょう。しかし、信玄は作戦を中止し、一度長篠城に後退しました。信玄が発病したため、回復を待つことになったのです。

 信玄は3月6日に、美濃国の岩村城を治める秋山虎繁に対し、東美濃の信長勢力を叩くよう書状を送っていますが、その後の動向ははっきりしません。長篠城付近の鳳来山で静養してしましたが、回復の兆しがおもわしくなく、甲府に帰国することを決めたとも伝わっています。

 『甲陽軍艦』によると、2月には一時回復の傾向を見せ、3月3日には歩けるほどだったようです。しかし、その後悪化し、4月には近習や一門衆の合議によって甲府への帰国が決まります。日増しに信玄の病状は悪くなり、4月12日、信濃国下伊那郡で危篤状態に陥って亡くなっています。享年53でした。

 一方、義昭は3月8日に挙兵し、公然と信長に敵対したのですが、肝心の信玄が動かず、御所を包囲されて4月7日に降伏しています。時期尚早の義昭挙兵を聞き、その前途を予測して、信玄の症状はより悪化したのかもしれません。

武田信玄の死因は?

 信玄の死因には、以下のように諸説あります。

  • 暗殺説
  • 鉄砲で狙撃を受けた傷
  • 肺結核
  • 胃ガン
  • 日本住血吸虫症
  • 肝臓病

信玄暗殺説はフィクション

 信玄が亡くなったことで最も利益をあったのは信長です。信長は信玄の上洛を食い止めるために必死に友好関係を築き、持続させようとしてきました。それほどの脅威だったわけです。信玄は野田城を陥落させた直後から吐血するようになったようですので、もしかすると信長の刺客によって毒殺されたのかもしれません。

 野田城を包囲している間、毎晩のように城から聞こえてくる笛の音に引かれたところを狙撃されたという説もあります。

 しかし影武者まで用意し、常に周到だった信玄が毒殺されたり、油断して狙撃されるということは考えにくいでしょう。実際に愛知県新城市には信玄を狙撃した場所として看板が立てられていますが、あくまでも言い伝えと書かれています。

 暗殺によって信玄が亡くなったのは、どうやらフィクションのようです。

病気説が有力

 死因については、はっきりとした確証はありませんが、病死という説が有力です。

 では何の病気だったのか?信玄の侍医を務めたという御宿監物の書状によると、呼吸するたびに苦しんで吐血していたようなので「肺結核」の可能性があります。江戸時代に書かれた『武家事記』によると、結核が原因と記されています。

 しかし、解釈次第では「胃ガン」の可能性もあります。胃ガンもやはり進行すると吐血する症状が見られますし、信玄は隔を病んでいたとも伝わっています。実際『甲陽軍艦』では、胃ガンで亡くなったと記されています。

 信玄の侍医は触診において、信玄の腹が異常に膨れ上がっているとも記しており、寄生虫による感染症「日本住血吸虫症」も考えられます。結果として肝硬変になって亡くなったのかもしれません。「肝臓病」も候補に挙がっています。

没地もはっきりしない

 没した場所については、史料によって記録が異なるものの、信濃国下伊那郡であることは間違いないようです。

 御宿監物の書状には「駒場」と記されており、『三河物語』には「平谷・浪合」と記されています。そして『甲陽軍艦』には「根羽」と記されていますので、特定するのは難しいのですが、すべて信濃国下伊那郡の土地です。

おわりに

 信玄は己の死と共に、信長が突出した存在になっていくことも予測していたのかもしれません。信濃国下伊那郡で亡くなる前日には、四男である武田勝頼を枕元に呼び、遺言を残しています。

「3年間はわしの死を隠せ」


 そして「孫である武田信勝(勝頼の子)が成人して当主になるまでの期間、勝頼が後見人を務めること」が告げられました。信玄は己の死期を察していたからこそ、上洛し、信長を倒すラストチャンスに賭けて西上作戦に踏み切ったのではないでしょうか。

 はたして信玄の症状が回復し、上洛を成し遂げていたら時代はどう変わっていたのでしょうか。もしかすると江戸幕府ではなく、信玄が創設した幕府が天下を治めていたかもしれません。



【主な参考文献】
  • 柴辻俊六『信玄と謙信』(高志書院、2009年)
  • 平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2006年)
  • 笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』(中公新書、1997年)
  • 奥野高広『武田信玄(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館、1985年)
  • 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1977年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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