「どうする家康」上洛を求める豊臣秀吉の要求に徳川家康が返した痛烈な言葉とは

 大河ドラマ「どうする家康」第34話は「豊臣の花嫁」。徳川家康の重臣・石川数正の出奔に動揺する徳川家中と、家康を上洛させるため、秀吉が打ってきた次なる「秘策」が描かれていました。では、秀吉の家康懐柔策とは、どのようなものだったのでしょうか。ここでは『徳川実紀』などを中心に見ていきましょう。

 同書によると、天正13年(1586)の冬、秀吉は浜松の家康に使者を派遣したとあります。しかしこの時、家康は鷹狩に出ていて城にはおらず。仕方なく使者は狩場に出向きます。同書には、使者が最初、家康に何を言上したかは書かれていませんが、おそらく、家康の上洛を求める秀吉の言葉や、養子として秀吉に差し出した(実質的には人質)家康次男の於義丸(後の結城秀康)に都で対面しては如何というようなことを伝えたのでしょう。

 それに対する家康の返答が振るっています。それは

「私は織田殿(信長)が存命の時に上洛し、名所旧跡はよく見た。よって、都が恋しいとは思わぬ。また、於義丸は、秀吉の子として進上した。今は我が子ではないので、対面したいとは思わぬ。秀吉が私が上洛しないことを怒り、大軍をもって攻め寄せてきたならば、私も美濃路辺りまで出兵し、秀吉軍を蹴散らそう」

という内容のものでした。

 使者は大坂に戻り、家康の言葉を秀吉に伝達します。すると、秀吉は織田信雄(信長次男)と相談、秀吉の妹(旭姫)を正室として、家康に嫁がせることを決断し、それを実行するのです。旭姫の家康への嫁入りは、天正14年(1586)5月14日のことでした。『三河物語』にも「私の妹を差し上げよう」という秀吉の言葉や、秀吉が妹を輿入れさせ、家康を妹婿にしたことが記されています。『徳川実紀』や『三河物語』における秀吉の家康への対応は、先述のように「甘い」ものですが、実際には、秀吉は小牧・長久手の戦い後も、家康を征伐しようとしていました。

 家康が新たな人質提出要求を拒んだとして、家康を討つ決意を固めていたのです。秀吉の出陣は、天正14年1月が予定されていました。ところが、天正13年11月29日に「天正大地震」が起こり、秀吉の勢力圏に大きな被害を及ぼしたため、家康征伐は中止となります。その後、秀吉は融和策をとり、自らの妹を家康に正室として嫁がせるまでになるのです。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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