「塩尻峠の戦い(1548年)」信玄の信濃国制圧の転機となった戦い。佐久郡は再び平定へ。
- 2022/01/27
順調に信濃国に勢力を拡大していた甲斐国の戦国大名・武田信玄でしたが、天文17年(1548)2月には、信濃国の覇権を巡る村上義清との戦い(上田原の戦い)で大敗します。この敗北で信濃国の反武田勢力は盛り返し、信玄の信濃国制圧は一歩後退。ところがこの危機にあって信玄はまもなく、信濃国守護の小笠原氏との合戦で大勝し、再び形勢を逆転するのです。
今回はそんな信濃国制圧の転機となった「塩尻峠の戦い(しおじりとうげのたたかい)」についてお伝えしていきましょう
今回はそんな信濃国制圧の転機となった「塩尻峠の戦い(しおじりとうげのたたかい)」についてお伝えしていきましょう
信濃国守護・小笠原氏について
合戦の経緯の前に、まずは信濃国守護・小笠原氏について少し触れてみます。武田信玄の信濃国侵攻に立ちふさがったのは村上義清だけではありません。信濃国守護である「小笠原長時」も周辺の豪族を味方につけて信玄に敵対しました。しかし、この小笠原氏。実は武田氏と同じく、甲斐源氏の祖・源清光の末裔なのです。清光の三男である源遠光の子・源長清が、甲斐国巨摩郡小笠原郷を継いで小笠原氏を称したのが始まりとされています。
室町期に信濃国の守護となってからは、代々守護職を務め、戦国期にも信濃国の守護として筑摩郡と安曇郡の2郡を支配する名家です。信濃国では村上氏と並ぶ勢力を誇っていました。そして小笠原長時は信玄と同じ年に小笠原氏の家督を継ぎます。彼が家督を継いだのが天文10年(1541)、最初に信玄と激突するのは天文14年(1545)のことでした。
武田との初対戦は敗北
かつて信玄が諏訪郡を攻めた際、武田方に味方した伊那郡の高遠頼継は、諏訪氏を滅ぼした後に諏訪郡の西半分を支配しました。そして今度は諏訪郡全域を制圧すべく、伊那郡の藤沢頼親と共に、天文11年(1543)諏訪郡の武田領に侵攻。しかし頼継・頼親連合軍は武田勢に撃退され、頼継は諏訪郡から撤退しました。この時、頼親は信玄に降伏しています。逆に信玄は天文14年(1545)から伊那郡へ侵攻。高遠城の頼継は、箕輪城(福与城)の頼親を再度味方に引き込み抵抗します。頼親は小笠原長時の妹を正室に迎えていたので、藤沢氏と小笠原氏は姻戚関係にありました。
こうした背景から長時は信玄の侵攻に備えて龍ヶ崎城に援軍を出しますが、このとき武田重臣の板垣信方に龍ヶ崎城を攻略され、敗退を余儀なくされます。高遠城も陥落となり、箕輪城の頼親は信玄と和睦しました。
開戦までの経緯
諏訪郡や伊那郡を制圧した信玄は、続いて佐久郡へも侵攻。しかし、天文17年(1548)2月の上田原の戦いでは小県郡の村上義清と激突し、初めての敗北を喫します。これをきっかけに武田領は混乱に陥ったようです。4月には高遠頼継が甲府を出奔(『高白斎記』)。さらに村上氏、小笠原氏、安曇郡の仁科氏の軍勢が諏訪郡に侵攻し、放火しています。藤沢頼継も再度信玄を裏切り、この侵攻に加わりました。
なお、この放火は、諏訪下社の宮移りの祭礼の日であり、諏訪上社の御柱引きの祭りが近づいていたため、その隙を突く攪乱工作だったようです。ちなみに御柱引きの祭りは武田氏の援助で無事に行われましたが、乱入のため参加者はいなかったと『神使御頭之日記』には記されています。
一方で佐久郡においても武田氏に背く佐久国衆が相次ぎ、村上勢によって佐久郡の前線基地であった内山城の大半を焼かれ、前山城も佐久国衆に奪還されてしまいました。
6月になると、長時は再び諏訪郡に侵攻していますが、諏訪下社の地下人たちに迎撃され、騎馬17、雑兵100余人を討ち取られています。長時も手傷を負いました。長時は弓馬に優れていましたが、兵の統率は上手くなかったようです。
諏訪郡郡代である板垣信方は上田原の戦いで討死していたので、諏訪郡は動揺していましたが、長時はこの好機にあっても諏訪郡を攻略できなかったのです。
塩尻峠の小笠原陣営を急襲、武田勢が圧勝
7月には、西方衆と呼ばれる諏訪地域の地侍が長時に呼応します。この時、諏訪上社長官の守矢頼真や千野氏など武田方に誼を通じている者らは上原城に避難しました。そして長時もまた西方衆の動きに合せて、塩尻峠まで出陣し待機していたのです。西方衆の反乱の知らせを聞いた信玄はただちに甲府を出発します。そして甲斐国と信濃国の国境に位置する大井森(北巨摩郡長坂町)で進軍を止め、慎重に諜報活動を行ったと考えらえています。おそらくここで、塩尻峠まで軍勢を進めていた長時の存在に気が付いたのでしょう。兵の数では信玄の方が劣っていたようです。
7月18日まで大井森に留まっていた信玄は、夜にかけて諏訪郡の上原城に入ります。ここまで動きの鈍かった武田勢に油断した長時は、警戒を怠っていたようです。信玄は翌朝には静かに兵を動かし、塩尻峠の小笠原勢の陣営を急襲しました。小笠原勢は誰一人として武具をつけておらず、大半は就寝中で武田勢と立ち合うことすらできない有様だったと伝わっています。
このように、戦いは武田方の一方的な勝利となり、小笠原勢は1千余人が討死しました。長時は命からがら本拠地の林城に帰還しますが、信玄はそれを追撃し松本平まで侵攻しています。
おわりに
この戦いの勝利で武田方は息を吹き返し、長時はその勢いを止めることができず、天文19年(1550)林城も陥落され、信濃国を追われています。その妹婿である藤沢頼親は、穴山信友を通じて再度信玄に降伏しました。上田原の戦いで危機的状況に陥った信玄でしたが、塩尻峠の戦いを機に一気に形成を逆転し、小笠原氏を滅ぼして中信濃を制圧。北信濃を除く広大な領土を支配するようになります。
ただ、残る北信濃の領地は宿敵の村上義清が支配しており、その背後には信玄のライバルとして長く渡り合うことになる越後国の上杉謙信が控えています。
小笠原長時にもう少し信濃国の武士をまとめる力があれば、信玄は本格的に信濃国から兵を退いたかもしれません。しかし、合戦においても、調略においても長時より信玄の方が一枚上手だったのです。器量では長時は信玄には敵わなかったということでしょう。
ちなみに長時は三好氏、上杉氏、織田氏に仕えた後、最終的に会津国の蘆名氏に軍師格として迎えられ、天正10年(1582)に武田氏が織田信長に滅ぼされると、翌年に死去しています。そして孫の小笠原秀政の代になり、小笠原氏は信濃国松本藩8万石の初代藩主となるのです。
滅びた武田氏と、繁栄した小笠原氏、実に不思議な運命だと言えるでしょう。
【主な参考文献】
- 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1977年)
- 笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』(中公新書、1997年)
- 平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2006年)
- 柴辻俊六『信玄と謙信』(高志書院、2009年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄