「大友義統」悲運の豊後大友家第22代当主。六ヵ国の国持大名から流罪の身へ
- 2021/07/06
豊後国大友家は、宗麟の代に六カ国に勢力を伸ばしました。家督を継いだ大友義統(おおとも よしむね)は、度重ねる失政の末に大友家を衰退させます。
暗愚な跡取りだというイメージばかりが強い義統ですが、天下人たちに一定の評価をされたこともありました。義統は宗麟譲りの外交手腕を用い、信長や秀吉と渡りあっています。
本当に義統はただの暗君だったのでしょうか。大友義統の生涯を見ていきましょう。
若年にして、九州六カ国を相続する
永禄元(1558)年、大友義統は、大友家第21代当主・大友宗麟の長男として生を受けました。
諱は、室町幕府将軍・足利義昭の偏諱を受けたものです。大友家当主は、代々足利将軍家の通り字の「義」を諱に貰っています。
天正4(1576)年、宗麟が隠居したことに伴い、義統は家督を相続して大友家当主となります。
しかし実権は父である宗麟が掌握しており、翌年まで共同統治が続いていました。
この頃、15代将軍・足利義昭が織田信長から京を追われ、毛利家に身を寄せていました。
義昭は毛利家を上洛させるため、敵対する大友家を外交で攻撃。「九州六ヶ国の凶徒」と糾弾の上、周辺諸大名に工作を行いました。
これに対して、義統は将軍と対立する織田信長に接近。かつての宿敵であった毛利家を攻める兵を出す約束をした上で、敵対する島津家との和睦を調停してもらいます。さらに信長から毛利家領の周防・長門の両国を与える旨の朱印状を得ました。
かつて宗麟も外交政策を駆使して、版図を拡大してきました。義統も多分に宗麟の能力を受け継ぎ、その薫陶を得ていたことがうかがえます。
耳川の敗戦を招き、大友家を衰退させる
やがて大友家と義統の運命を変える時が訪れます。
薩摩国の島津家が日向国に侵攻し、伊東家を放逐。伊東義祐らは縁戚の大友家に身を寄せてきます。
義統と宗麟は、日向国への侵攻を決めます。立花道雪ら重臣が強硬に反対してきますが譲りませんでした。
天正6(1578)年、義統は三万の兵と共に日向国に侵攻します。いわゆる「耳川の戦い」ですが、この戦いはなぜ起こったのでしょうか。
伊東家に対する援護や領土拡張だけではないようです。侵略先の日向国では、当地の神社仏閣を破壊しています。
宗麟はキリスト教に傾倒しており、いずれ日向国にキリスト教国を築こうとしていたと言われています。
特筆すべきは義統の行動です。
大友家の本拠である豊後国や筑後国では、むしろ義統が神社仏閣の破壊を積極的に実行してます。
後に義統も宗麟と同じくキリスト教に入信します。
このことから神社仏閣の破壊は、義統が主導した可能性があります。
そのため、日向侵攻を主導したのは、当主である義統とも言われています。
しかし、大友軍は日向国耳川において島津軍に大敗を喫しました。結果として重臣たちの多くを失ってしまったのです。この敗戦以降、大友家の家中は激しく動揺します。家臣団の分裂や謀反が頻発するようになっていきます。
さらに内紛を激化させたのは、義統と宗麟の対立です。
義統の生母・奈多夫人(宗麟から離縁)は、義統に影響力が強くキリスト教を忌避していたといいます。
さらには、大友家の家臣団にはキリスト教に反対する者もいました。
義統は宗麟との間で板挟みになった可能性があります。そんな状況でも、義統は順調に位階を駆け上がります。
天正7(1579)年には、義統が信長の推挙によって従五位下・左兵衛督に任官されます。
五位以上は、朝廷への昇殿が許される「殿上人」という地位です。
朝廷の官位の面から見ても、義統は天下人からも認められていたことがわかります。この段階では、義統も大友家も信長の強い後ろ盾が支えとなっていたと考えられます。
秀吉に豊後一国を安堵される
府内城から逃げ出す
耳川での敗戦の影響で、大友家の家中の動揺は激しさを増していきました。
天正8(1580)年、大友家の一族である田原親貫と田北紹鉄が、秋月種実と結んで謀反に及びます。
さらには、大友家の軍事的支柱である重臣・立花道雪が病死します。
薩摩の島津義久と肥前の龍造寺隆信らは好機と見て大友領への侵略を進めていきます。
天正10(1582)年には、大友家の後ろ盾であった織田信長が本能寺の変で討たれてしまいました。
外交的にも大友家は追い詰められていきました。
天正14(1586)年には、島津家豊後国への侵攻が本格化します。
家臣団はそれぞれの城に籠り、立花道雪と並んだ宿将・高橋紹運も玉砕を遂げます。
宗麟は大坂城の豊臣秀吉に援軍を要請に向かいます。しかし義統は、ここで信じられない行動に出ます。大友家の居城である府内から逃げ出したのです。
このとき、義統は府内に残した愛妾を救出した家臣に恩賞を与えようとしたものの、逆に嗜められて逐電されてしまった、というエピソードが残されています。
これが事実であれば、かなり情けない主君であったことを窺わせます。もはや大友家の滅亡は時間の問題でした。
九州平定後、豊後国を安堵される
天正15(1587)年、ようやく豊臣家の援軍が豊後に現れます。
形勢は一気に傾き、島津軍は撤退。豊臣家による九州平定が行われ、大友家の危機は去りました。
戦後、義統は秀吉から豊後国と豊前の一部を安堵されています。
同年には、義統はキリスト教の洗礼を受けました。洗礼名はコンスタンチノといいます。これは豊前に着任した、キリシタンでもある黒田孝高の勧めとされています。
しかしまもなく、秀吉から棄教令が出され、信仰を捨てることになりました。
生き残るという意味では、義統は柔軟な姿勢であったとも言えます。
天正16(1588)年、義統は上洛して秀吉に謁見しています。
このとき羽柴性を下賜された上、偏諱を与えられて「吉統」と名乗っています。位階は従四位下の侍従に叙任されました。
一国の主としては十分な厚遇ぶりです。
天正18(1590)年、小田原征伐にも参陣。
そして同年、天正遣欧使節団が帰国しています。
義統は宣教師たちに棄教したことを謝罪した上で「自分は意思薄弱で優柔不断な性分なので」と言っています。
『九州諸家盛衰記』では同じく人格を「不明惰弱」と称されています。
天正20(1592)年、文禄の役六千の兵を率いて参加します。
同年に嫡男・義乗に家督を譲り、大友家当主の座から退きました。
このとき、義統は21ヶ条の家訓を残しています。自らの酒好きを自戒してか、下戸に徹するよう注意もしていました。
彼自身酒癖の悪さについては、宣教師たちが「過度の飲酒癖やそれによる乱行が多い」とするなど問題とされていました。
義統は自己分析ができる人間であったことは確かです。意志薄弱や酒癖も認識した上で、より柔軟に生き残ろうと苦心していたことが見て取れます。
領地没収と流罪の身へ
朝鮮出兵における「失態」で改易となる
豊臣家の下、順風満帆に見えた義統の人生に暗雲が立ち込めます。
文禄2(1593)年の平壌城の戦いでの出来事です。このとき、小西行長が明の大軍に包囲されていましたが。義統は行長からの援軍要請を黙殺してしまいます。
行長戦死の誤報を信じたと言われていますが、これが問題となりました。義統が行長を見捨てた形となり、秀吉の怒りを買い、名護屋城に召還されます。義統は剃髪して謹慎。石田三成らの讒言もあって、最終的に改易を言い渡されました。大友領は没収の上、豊臣家の蔵入地となっています。
しかしここには、不審な点もあります。小西行長からの援軍要請は、黒田長政と小早川秀包にもだされてましたが、両名ともこれを拒んでいます。つまり、義統だけが改易処分という厳しい措置が取られたことになります。理由については、讒言や梅北一揆との関連、という説があります。
注目すべき点は没収された豊後国が太閤蔵入地となったことです。これにより、九州に豊臣家の奉行による出先地域が出来たことになります。
朝鮮出兵の際、豊後は地理的に重要な地点でした。このため、そこを抑えようと強引な改易が行われた、という考えも出来ます。
関ヶ原の戦いで西軍に与して流罪となる
義統は改易後、徳川家や佐竹家などに預けられ、幽閉状態が続きました。
慶長3(1598)年、秀吉が死去。この翌年に特赦され、ようやく幽閉が解かれました。
義統は大坂城下の天満に屋敷を与えられ、豊臣家に出仕しています。
慶長5(1600)年、石田三成と徳川家康の間で関ヶ原の戦いが起こります。この時の義統は、微妙な立ち位置にありました。
自身は大坂城に出仕しつつも、嫡男である義乗は徳川秀忠に近侍しています。しかし朝鮮出兵での経緯からも、義統は西軍に良い感情は持っていなかったと思われます。
しかし大坂城下には、彼の側室と庶子が軟禁されていました。結局、義統は西軍に所属することを決めます。そして総大将の毛利輝元の支援を受け、広島城から出陣しました。
義統は大友家の旧臣たちを糾合し、豊後国に侵攻。国東半島の諸城を落とします。その人数は二千人にまで膨れ上がりました。
しかし石垣原の戦いで黒田如水らにあえなく敗北し降伏しました。
関ヶ原の戦いの後、義統は出羽国の秋田実季に預けられました。その後、秋田家の常陸国への転封に伴って同地への流罪となっています。
慶長15(1610)年、義統は世を去りました。享年五十三。その後、嫡男の義乗は旗本として徳川幕府に仕えています。
【主な参考文献】
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