「比叡山焼き討ち(1571年)」神仏をも恐れぬ信長。焼き討ちの真相とは?
- 2019/09/12
織田信長の残忍さを語るうえでは欠かせないのが、比叡山焼き討ちです。比叡山は平安時代より、“王城の鎮護”とされてきた聖域。信長はなぜ、そんな比叡山を攻撃したのでしょうか。信長による比叡山焼き討ちの経緯・結果について、わかりやすくご紹介していきます。
比叡山延暦寺とは
まずは簡単に比叡山について説明しておきましょう。比叡山延暦寺は延暦7(788)年、天台宗の開祖・最澄が開いたお寺(※1)です。その後は仏教教学の中心的存在として、大いに栄えました。
※1 最澄の死後、比叡山延暦寺と呼ばれるようになった。
延暦寺は武力も有していました。僧兵と呼ばれる、武装した下級の僧侶たちです。延暦寺の僧兵たち(※2)は強訴(神仏の権威を背景とした要求など)を行い、朝廷にも影響力を及ぼすほどの強大な権力を持っていました。
※2 延暦寺の他にも興福寺(南都北嶺として延暦寺の僧兵と並び称された)・園城寺・東大寺など、大きい寺は僧兵を養っていた。
古代寺社勢力の最大拠点であった延暦寺は、他の権力との衝突も珍しいことではありませんでした。
宗教施設でありながら、武士たちも無視できない軍事拠点(戦国大名に匹敵する軍事力!)でもあったのです。
そんな延暦寺ですが、実は織田信長による焼き討ちの前にも、二度焼かれています。
- 【1435年】室町幕府6代将軍・足利義教
- 【1499年】室町幕府の管領・細川政元(細川勝元の子)
- 【1571年】織田信長
比叡山焼き討ちは「神仏をも恐れぬ信長のみがなせる業」というワケではなかったのですね。
なぜ信長は比叡山を焼き払ったのか
さて、織田信長はなぜ比叡山焼き討ちを行ったのでしょうか。まず背景にあったのは、信長と浅井・朝倉氏との対立でした。信長と浅井・朝倉の対立
信長は元亀元(1570)年4月に朝倉を攻めた金ヶ崎の戦いで、浅井長政の裏切りに遭います(金ヶ崎の退き口)。同6月に報復戦となった姉川の戦いでは、朝倉義景と結んだ浅井長政と対決。信長軍が勝利しますが、浅井・朝倉に致命的なダメージを与えるほどではありませんでした。その後、9月になって浅井・朝倉軍が信長の留守(※3)を狙って京都に進軍します。信長が京都へ向かうと、浅井・朝倉軍は比叡山延暦寺へ逃げ込み、比叡山も彼らを保護するのです。
※3 このとき信長は、野田城・福島城の戦いおよび本願寺の顕如との対決中であった。
理由は比叡山がやりたい放題だったから
信長は、比叡山に次のような要請をします。- 味方になれば、延暦寺領を返すこと(信長は比叡山領を横領していたため)
- せめて中立を保ってほしいこと
上記のいずれの条件も飲まなければ、根本中堂など山ごと焼き払うと警告していました(『信長公記』)が、比叡山側はこれを無視。こうして信長軍と浅井・朝倉両軍のにらみ合いは、およそ3カ月も続くことになりました。(志賀の陣)
結局、信長と浅井・朝倉両軍は和睦に至ります。関白・二条晴良が出した調停案に、唯一「待った」をかけたのが延暦寺でした。延暦寺は自領の安堵を要求。正親町天皇に綸旨(りんじ)を出してもらい、ようやく和睦が成立したのです。
当時の延暦寺の僧たちは、生活面でもやりたい放題。仏教では禁じられている肉食をし、山に女性も入れていました。
信長が延暦寺を許せなかった理由が、なんとなくわかってきませんか? 出家してるくせに戒律を守らず、俗世間のことにまで口を出しやがって! というわけです。
比叡山焼き討ちの経緯
比叡山攻めを決意したと思われる信長ですが、すぐには比叡山に向かいませんでした。信長軍はいろいろ、寄り道をしていたのです。比叡山焼き討ちの悲惨な様子・結果・その後の比叡山についてご紹介しましょう。
焼き討ちまでのルート
翌年の元亀2(1571)年8月18日、信長軍は北近江へと出陣します。秀吉が守っていた横山城にしばらく滞在した後、浅井・朝倉へのけん制のため、小谷城の北の余呉(よご)・木本(きのもと)あたり一帯に放火しています。8月28日には丹羽長秀のいる佐和山城に入りました。
9月1日には、浅井方に寝返った志村城と小川城を攻撃。志村城にいたってはほぼ皆殺しの様を呈し、恐れをなした小川城はすぐ降参しています。続いて3日に一揆勢の立てこもる金森(かねがもり)城を攻撃して開城させると、11日、信長は園城寺(=三井寺)の近くに陣を構えました。
ここでようやく比叡山攻めに取りかかるのです。
僧侶・女性や子供もおかまいなしに殺害
9月12日の早朝、信長は坂本(現滋賀県大津市)へと軍を進めます。比叡山の麓にある坂本は交通の基点であり、延暦寺とも関係の深い町でした。信長軍は坂本に放火すると、日吉大社(延暦寺の守護神)や根本中堂といった歴史ある建築物をはじめ、町屋や堂舎などをことごとく焼き尽くしたのです。
『信長公記』には、当時のショッキングな惨状が残されているので紹介しましょう。
- 根本中堂・日吉大社をはじめ、仏堂・神社、僧坊・経蔵、一棟も残さず、一挙に焼き払った。煙は雲霞の湧き上がるごとく、無惨にも一山ことごとく灰燼の地と化した。
- 山下の老若男女は右往左往して逃げまどい、取るものも取りあえず、皆裸足のままで八王寺山へ逃げ上り、日吉大社の奥宮に逃げ込んだ。
- 僧・俗・児童・学僧・上人、すべての首を切り、信長の検分に供して、これは叡山を代表するほどの高僧であるとか、貴僧である、学識高い僧であるなどと言上した。
- そのほか美女・小童、数も知れぬほど捕らえ、信長の前に引き出した。
- 悪僧はいうまでもなく、「私どもはお助けください」と口々に哀願する者たちも決して宥さず、一人残らず首を打ち落とした。
- 哀れにも数千の死体がごろごろところがり、目も当てられぬ有様だった。
うわー、ただの地獄絵図ですね。ここ、聖域ですよ? 犠牲者数は史料によって異なりますが、1千~3・4千ともいわれています。大量虐殺ですね……。
真実はイメージほどひどくなかった?
比叡山焼き討ちで、信長軍は建物や経典などすべてを焼き払い、山上にいた多くの僧侶や民間人までも皆殺しにしたというイメージを持つ人が多いでしょう。そのイメージは、事実とは違う可能性があることもご紹介しておきます。発掘調査の結果、信長の焼き討ちで焼失したことが確実なのは根本中堂と大講堂のみということがわかっています。さらに僧の多くは比叡山ではなく、坂本にいたそうです(堂坊の多くが移転していたため)。
信長の比叡山焼き討ちはあまりにも有名ですが、真実は意外とはっきりしていません。
9月13日には、山上の東塔から横川(よかわ)にかけて放火(『言継卿記』)。信長軍は15日まで山上で放火を続けたようです。信長本人は13日に馬廻・小姓を率いて上洛し、将軍御所へ報告を行っています。9月20日には、岐阜へと帰陣しました。
土地は織田家臣たちで分配
比叡山の寺領・社領は信長側に没収され、南近江に配置されていた5人の家臣(下記)に分け与えられました。- 明智光秀
- 佐久間信盛
- 中川重政
- 柴田勝家
- 丹羽長秀
領地だけでなく、近江の国衆たちも彼らのもとに集められました。結果として、近江支配体制の強化につながったのです。一方、比叡山の存在は完全に消されました。信長存命中の再興は許されず、秀吉による再興を待つことになります。
おわりに
比叡山焼き討ちは、織田信長のサイコパスな一面を語るうえで、必ずと言ってよいほど紹介される出来事です。家臣団からもたしなめる声が上がったり、ひそかに僧侶たちを逃がしてやったりしたという逸話もあるほど、戦国時代の当時でもタブーを犯した行動だったといえます。しかし意外や意外、比叡山を攻撃したのは信長だけではなかったのです。さらに、伝えられているほどはひどくなかったとも考えられています。
とはいえ、ひどいことには変わりはないので、いくらカリスマ上司からの指示であっても、やりたい仕事ではありませんね……。
【主な参考文献】
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
- 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 比叡山延暦寺 HP「延暦寺について」
- PHP online衆知「比叡山延暦寺はなぜ、織田信長に焼き討ちされたのか?」
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