「森可成」織田軍団をけん引、十文字槍の使い手 "攻めの三左"。
- 2019/10/31
森可成(もりよしなり)は織田信長に早くから仕えた武将の一人です。信長のお気に入りの小姓・森蘭丸や、猛き武将・森長可らの父、といえば可成が活躍した時代のイメージが湧きやすいでしょうか。
信長の下で戦場を駆け回り、のちに織田家の代表武将10人に数えらえるほどに出世をとげた可成の生涯をご紹介します!
信長の下で戦場を駆け回り、のちに織田家の代表武将10人に数えらえるほどに出世をとげた可成の生涯をご紹介します!
【目次】
織田家に仕え、若い信長を支える
可成は大永3年(1522)、美濃国境に近い葉栗郡蓮台に生を受けました。もともと森家は美濃の斎藤氏に仕えていましたが、のちに織田家に転仕することになります。信長より12歳ほど年上の可成は、主に軍事面で若き信長を支え、織田軍団の草創期をけん引していきました。
信長が23歳の頃、信長のすぐ下の弟・信行と家督をめぐる対立が深まり、その対立は弘治2年(1556)、稲生の戦いへと発展します。このとき信行方は柴田勝家を名代としたおよそ1000騎、林美作が率いる700騎で参戦したのに対し、信長方の兵力は700騎にも満たないという圧倒的な兵力差をみせつけられます。
しかし、信長に付き従うのは信長が自ら手塩にかけて育ててきた親衛隊の面々です。可成をはじめ、佐久間盛重、佐々成政、佐々孫助、河尻秀隆らを率いて戦に臨んだ信長は戦場において自ら大音声で兵を叱咤。主君・家臣が一体となって勝利をつかんだのです。
その後も可成は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いなどにも参戦しており、信長とともに戦場で暴れまわり活躍しています。
美濃攻略を経て、織田家中で重臣クラスに出世
桶狭間の戦いの後、信長は本格的に美濃の攻略に着手します。美濃は「美濃を制する者は天下を制する」ともいわれる枢要の地。信長は是が非でも攻略を成功させる必要があったのです。永禄8年(1565)、信長は手始めとして可成に烏峰城(後の兼山城)を攻略させます。美濃の攻略の過程で、織田軍は周囲の兵力をどんどんと取り込んでいき、圧倒的に規模が拡大。可成も兼山城の主となり、城持ちの武将へと出世。織田軍の看板武将としても名を広く知られるほどになりました。
永禄10年(1567)、信長は34歳にして美濃を平定。そして、翌年の永禄11年(1568)に岐阜城を出陣し、足利義昭(のちの室町幕府15代将軍)を奉じて上洛戦を行い、9月26日には上洛を果たしました。
畿内平定戦でも先鋒隊の一人として電光石火の活躍
さて、上洛を果たした信長の次の目標が畿内平定です。そのためには三好三人衆を討伐する必要がありました。信長は上洛したその日のうちに三好三人衆のうちの一人、岩成友通の山城である勝龍寺城へ先鋒隊を差し向けます。この時の先鋒隊の四将は柴田勝家、蜂屋頼隆、坂井政尚、そして可成でした。4人は協力して敵陣に突撃をかけ、敵の首を50余りも挙げると、興福寺に布陣していた信長に首を送ります。
さらにその翌日には信長も三好攻めへ参戦して芥川城、勝龍寺城を落とし、その後は越水・滝山も戦わずして手中におさめ、池田城を落としたところで畿内を平定するのです。
ちなみに芥川城にとどまっていた信長と義昭が京都に戻ったのが10月14日なので、上洛からわずか3週間ほどで畿内を支配したことになります。驚愕のスピードですね。
その後、信長は自らの家臣の中から有能な人材を幾人か抜擢して、京都・畿内の政務にあたらせます。可成も能力至上主義者の信長に引き上げられ、柴田勝家や佐久間信盛らと組んで、行政を担当することとなりました。
同年11月に発給された信長家臣の連署状には伏見荘の名主・百姓に当てて年貢などの納入についての指示が遺されていますが、この連署には柴田勝家、坂井政尚、蜂屋頼隆に並んで、可成の名も見えています。
「十文字槍」だけじゃない!武具・甲冑へのこだわりも
さて、ここでは少し可成の武具・甲冑に触れておきたいと思います。戦場では先頭に立って戦うことが多かった可成ですが、その強さを支えた武具や甲冑にも可成なりのこだわりがあったようです。可成の愛用の武器として有名なのが「十文字槍」。可成は「槍の三左」と呼ばれるほどの使い手であったことが知られています。
可成の息子・森長可も「人間無骨」という銘入りの十文字槍を片手に戦場で大暴れしていましたが、これは可成の形見でしょうか。…そういえば、戦陣に先頭きって突入する戦い方も、親子でよく似ていますね。
さらに、十文字槍と同様に目を引くのが、敵の攻撃から身を守る可成の兜でしょう。兜は鉄錆地の頭形鉢で、眉庇上に眉を打ち出すデザイン。頭上には薄い板を銀箔押しとした長大な大釘の頭立てが立てられ、存在感抜群です。釘には「打ち貫く」という意味もありますので、ゲンを担いだのでしょう。
戦国時代の武将の兜には個性的なものが多いのですが、可成の兜もなかなかのインパクトの強さを誇ります。黒一色のシンプルな鎧に、この個性的な兜。威圧感のある可成の武具・甲冑姿は、敵に本能的な恐怖を抱かせることに大いに役立ったことでしょう。
浅井・朝倉連合軍との抗争で死亡
元亀元年(1570)のこと、信長は琵琶湖の周囲に宿将を配置して湖南の地域を守らせることにしました。可成は岐阜・京都間の通路を確保するために築かれた宇佐山城に配置されました。他の宿将に先駆けて宇佐山城へ配置されていることから、信長がこの地を要と睨んでいたことが推察されます。
もっとくわしく
元亀元年は織田軍にとって浅井長政・朝倉義景連合軍との苦しい戦いが続いた年でもありました。6月、浅井の本拠小谷城へ攻め込んだ可成は、味方と共に雲雀山へ登って町を焼き払い、織田軍を勢いづけます。
しかし、信長が本願寺との和睦交渉をしているさなか、浅井・朝倉連合軍は琵琶湖の西岸をおよそ3万の軍勢を率いて宇佐山城まで進出してきました。このときの宇佐山城には、可成と信長の弟・信治の軍勢3千ほどの兵しかいませんでした。
それでも可成は大群にひるまず、自ら一千ほどの兵を率いて宇佐山の砦から坂を駆け下りて出撃、浅井・朝倉軍を迎え撃ちました。伏兵をうまく使いつつ、足軽合戦にもつれ込ませ、敵の首を若干ながら上げることに成功。前哨戦で勝利をおさめました。
しかし、その翌日、浅井・朝倉軍に一揆勢までもが加わり、敵の大群はさらに数を増します。数で言うと10倍以上の兵力差です。これらが集結して左右から挟み撃ちにして可成に襲い掛かったため、可成は惜しくも命を落としました。48歳でした。
なお、長政はさらに宇佐山を落とすために攻撃を加えましたが、可成の遺臣たちの激しい抵抗にあい、あきらめて撤退しています。
可成の死後、息子たちが信長を支え続ける
可成の死後、森家の家督を継いだのは次男の森長可です。そしてこの長可は可成に勝るとも劣らぬ剛の者でした。信長の息子である信忠の下で、常に先頭きって戦う苛烈な戦いぶり。どこか可成に通じるようなところもあったためか、信長のお気に入り武将の一人でした。また、三男以下・森蘭丸、坊丸、力丸も小姓として信長に召し出され、本能寺で命果てるまで、信長のそば近くで仕えることとなります。特に怜悧な蘭丸は、信長にとってはなくてはならない秘書のような存在。蘭丸は可成の政治的な手腕を受け継いでいたのかもしれませんね。
2代にわたって信長に手厚く仕えた森家の存在は、信長にとってとても頼もしく、心強い存在であったにちがいありません。
おわりに
若き信長に仕え、宿将として活躍を遂げた可成。信長の天下統一への道半ばで命を落としてしまいましたが、生前の可成の働きによって、子どもたちも信長の下で出世を遂げることとなりました。織田軍団の礎を築いた可成らの存在があってこそ、信長の天下統一への道がひらけたのでしょう。
【参考文献】
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
- 太田牛一 著、 中川太古 訳『現代語訳 信長公記 (上)』(新人物往来社、2006年)
- 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
- 『信長と織田軍団(新・歴史群像シリーズ11)』(学研、2008年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄