秀吉による朝鮮出兵時、真田一族は何をしていたのか?

 豊臣秀吉は天下を統一した後、全国の大名に「唐入り」の準備を命じ、朝鮮出兵を行いました。「文禄・慶長の役」です。この際、実際に渡海して戦った大名もいれば、渡海することなく在陣だけだった大名もいます。

 現代でも圧倒的な人気を誇っている「真田氏」はどのような役割を担ったのでしょうか?今回は文禄・慶長の役の際に真田氏が何をしていたのかについてお伝えしていきます。

朝鮮出兵での真田氏の役割とは?

 秀吉の唐入りで動員された兵力は『松浦古事記』によると、総勢30万です。

 陣立てとしては渡海して攻め込んでいったのは主に西国大名であり、徳川家康を筆頭とした東国大名は予備兵力として拠点である肥前国名護屋城に在陣しています。

『肥前名護屋城図屏風』(狩野光信 画、佐賀県立名護屋城博物館蔵)
当時の名護屋城の様子を詳細に描いた『肥前名護屋城図屏風』(狩野光信 画、佐賀県立名護屋城博物館蔵)

十六番衆に編成された真田

 真田氏当主である真田昌幸は、関東・奥羽衆12250人から成る十六番衆に所属しました。

 十六番衆の大将は家康であり、そこに編成された東国大名は、佐竹義宣、宇都宮国綱、蒲生氏郷、上杉景勝、伊達政宗、最上義光、里見義康、南部信直といったそうそうたる面々です。

 信濃衆は真田氏だけで、他の信濃国の大名は十五番衆に編成されていますが、これは真田氏が上野国にも領地を所有していたからだと考えられます。昌幸の名前は十六番衆の八番目にあり、嫡男である真田信幸の名前は十番目となっています。

 『覚上公御代御書集』によると、真田安房守は親子で700人の動員を指示されたと記されています。安房守は昌幸のことで、信幸とともに700の兵力を率いて十六番衆に従事したのです。

 ちなみに渡海に動員される人数は500人と記されており、そこには昌幸の名前しかありません。

昌幸の名護屋城到着はいつ頃か?

 昌幸に唐入りに従軍するよう指示されたのは、天正19年(1591)7月22日です。本格的な戦いは翌年の4月になりますので、その間に昌幸は兵を率いて肥前国名護屋城に向かったわけですが、いつ頃到着したのか詳細ははっきりしていません。

 十六番衆の大将である家康の京都出立が天正20年(1592)3月17日で、同年の4月28日には名護屋城に在所している記録が残っていますので、昌幸・信幸も同じ時期に家康とともに名護屋城に到着していたかもしれません。少なくとも家康の後に着陣したことは考えられないでしょう。

 補足として、朝鮮出兵は文禄元年が通説ですが、改元は天正20年の12月になりますので、本格的な開戦は「文禄」ではなく、「天正」の時期にあたります。真田氏が名護屋城に布陣したのも天正20年ということです。

文禄の役(1592~93年)における真田

羽柴秀次から労いの贈り物が届けられた

 文禄の役での真田氏の役割はどのようなものだったのでしょうか?『文禄慶長の役城跡図集』によると、名護屋城より後方にあたる名護屋湾沿いの赤松という場所に布陣していたと考えられます。

名護屋在陣での真田昌幸の陣所。色塗部分は肥前国

 名前は真田源五とありますが、源五郎は昌幸の仮名です。昌幸らはこの赤松の地で防備を固めながら、出陣の時期を待っていたのでしょう。

 詳細を記した史料はありませんが、文禄2年(1593)2月21日には、信幸が家臣ら9人に武者揃えの支度を命じたと『真武内伝付録』にあります。

 装束は真田氏の代名詞である「赤備え」です。指物も赤色で、母衣は金色と記されています。これは秀吉の指示のもと、明使節を迎えるための準備だったと考えられます。

 また、『真田文書』によれば4月9日に信幸が関白の座にあった羽柴秀次から長期の在陣をねぎらう贈り物があったとに記されています。

 秀次が関白と家督を秀吉から受け継いだのは前年のこと。主従関係を物語っているこの贈り物は、帷子ふたつだったようです。

 なお、秀次は関白として在京していたので名護屋城には入っていません。しかし昌幸らはおよそ1年間に渡り名護屋城に在陣しました。その間の経済的な負担は莫大なものだったことでしょう。

真田氏は渡海したのか?

 一番注目すべきは、渡海して武功をあげた小西行長や加藤清正のように昌幸も合戦に参加していたのか、という点でしょう。これについては明確な答えは見つかっていません。

 確かに『覚上公御代御書集』には昌幸は500人を率いて渡海するという陣立てが記されていますが、実際に戦った記録はまったく残されていないのです。

 十六番衆の中でも上杉景勝、伊達政宗については渡海した記録がありますので、昌幸もこれに参加していた可能性はあります。

 ちなみに5月20日に、明使節に対し悪口をしないように家中で徹底するという誓約を求められ、昌幸はこの起請文に連署していますので、この時期まで名護屋城で在陣していたのは確かです。

すでに人質ではなかった幸村

 また昌幸の二男である真田幸村(信繁)は、まったく別行動をとっており、名護屋城三之丸御番衆御馬廻組の中の一番石川組に所属しています。

 組頭は石川紀伊守光元であり、その組下の十八番目に真田源次と『太閤記』に記されています。この源次こそが幸村です。つまり、源次は真田氏とは別に直臣として秀吉の側近家臣に取り立てられていたことを示しているのです。

 秀吉は渡海しておらず、同年8月15日に名護屋城を出立、8月25日には大坂に帰還しておりますので、この際に幸村も共に戻ったと考えられます。つまり文禄の役の際に昌幸、信幸、幸村は誰も戦いに参加していない可能性が高いということです。

真田はいつ帰還したのか?

 文禄の役の終了後、真田がいつ帰陣したのか、はっきりしていません。ただ、十六番衆の大将である家康については、渡海しておらず、秀吉が名護屋城を出立したすぐ後に出立しており、8月29日には大坂に戻ったことがわかっています。

 『大和田重清日記』によると、同じ十六番衆の佐竹義宣も8月18日には名護屋城を出立していますので、昌幸と信幸もこの時期に帰還したと考えられます。

 1年間の在陣中には他の大名との交流も盛んに行われたことでしょう。やはり『大和田重清日記』によると、義宣の家臣である重清は、同年の4月20日に真田氏の陣を見学したと記されています。

 上田城の戦いで徳川勢を退けた真田勢とはどれほどのものなのか興味があったのではないでしょうか。おそらくその他にも多くの大名や武将が昌幸の陣を訪れたことでしょう。

 昌幸にとっては経済的な負担は大きかったものの、兵を失うことなく、人脈を広げることができたので、それはそれで貴重な機会だったと考えたはずです。

文禄の役の後、伏見城の普請を担当

 文禄の役で渡海しなかったこともあってか、昌幸らは文禄3年(1594)3月から伏見城普請を命じられており、9月まで担当しています。

 そうした中、4月には秀吉の計らいにより、昌幸が朝廷に参内を許される身分である「諸大夫」に成っています。これまでも従五位下安房守を称していましたが、ここで初めて正式な官職として朝廷から任じられたのです。軍役や普請の功労が認められたのでしょう。

 さらに同年11月には信幸と幸村も諸大夫成しており、信幸が従五位下伊豆守、幸村が従五位下左衛門佐に叙任され、両名とも豊臣姓をも下賜されるのです。

慶長の役(1597~98年)は?

 朝鮮出兵は一時中断しますが、外交交渉がうまくいかず、再び交戦状態となります。これが慶長2年(1597)の「慶長の役」です。

 主に西国大名が参戦し、翌年には秀吉が亡くなり、朝鮮出兵が中止されますので東国の昌幸は領地にいたと考えられます。

おわりに

 結論としては、真田氏は文禄の役で1年間に渡り、名護屋城に布陣したが、渡海はしておらず、慶長の役にも参加していません。ただし、この期間に存在感を高めたことは間違いないようです。そして秀吉の死後、十六番衆の大将であった家康と衝突する関ヶ原の戦いに向かっていくのです。


【参考文献】
  • 黒田基樹『豊臣大名 真田一族』(洋泉社、2016年)
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社 、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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