光秀と信長の関係 ~本能寺で討った者と討たれた者
- 2019/05/08
明智光秀の生涯を語る上で、織田信長の存在を避けて通ることはできません。というより、光秀は信長と関わったことで初めて歴史の表舞台に登場したといっていいでしょう。信長に仕官する以前の光秀についてはあまりよくわかっていないのです。光秀がのちに34万石の戦国大名になれたのも信長の存在あってこそでしょう。
それでは、本能寺の変に至るまでの両者の関係を詳しくみていきましょう。
それでは、本能寺の変に至るまでの両者の関係を詳しくみていきましょう。
【目次】
両者の生い立ち
主君・信長と家臣・光秀。この関係性が出来上がるもっと前、両者の生い立ちにはどの程度の差があったのでしょうか。土岐氏の支流・明智氏に生まれた光秀
光秀は鎌倉時代より続く名門・土岐氏の支流である明智氏の出身だ、というのが通説です。ただ、名門の出身といっても明智氏は庶流に過ぎないとされており、武士としてはまあまあの身分だったようです。江戸時代成立の軍記物『明智軍記』によれば、光秀の叔父・光安が城主であった明智城は斎藤義龍に攻められて落城。光秀は越前へ逃れ、その後牢人生活を送ることになったということです。
光秀が本当に城主の家系に生まれていたか、信憑性の高い史料がないため断言することはできません。信長と比較したとき、おそらく守護代の家柄の信長よりはもともと低い家だったのではないかと思われます。
尾張守護代織田氏に生まれた信長
信長は尾張守護代織田氏、勝幡城主・織田信秀の三男(※嫡男は信長とされる)として生まれました。守護代織田氏は清洲織田氏(大和守家)の分家にすぎなかったとされていますが、守護代は幕府のれっきとした役職ですから、出自のはっきりしない光秀に比べると「ちゃんとした戦国大名の家に生まれたんだな」とわかりますね。
ところで、信長のルーツに関しては諸説あります。
よく平清盛の子孫(平資盛の流れ)といわれますが、これは誤り。信長がのちにそう自称していただけで、それ以前は藤原氏を名乗っていたこともあります。じゃあ藤原氏なのかというとそれも微妙なところで、ルーツはもともと越前織田荘の神職の出身だったとか、敦賀の豪族・忌部氏だった(※福井県で始祖の墓が見つかっている)とかいわれています。
本来のルーツがはっきりしない点ではどちらも同じですが、武家としての立場は織田家の方が上だったように思えますし、まず光秀は居城を失った時点でゼロからのスタートになってしまいました。
もっとくわしく
少年期から青年期
「大うつけ」信長が天下布武を掲げる
少年期、かなり早い時期に那古野城主となっていた信長。このころ周囲から「大うつけ」といわれていて悪評が立っていたというのは有名な話ですよね。信長は父の死を機に家督を相続。父・信秀も斎藤らと戦って徐々に領地を広げていましたが、美濃を平定するに至ったのは信長です。その後、将軍・義昭の上洛に従い、いよいよ天下を目指して突き進んでいくことになるのですが、それまでに大変な出来事がいろいろありました。
永禄元年(1558)は、弟・信行(信勝)との家督争いから、謀反をもくろむ信行を殺害。翌年、身内の憂いが消えた信長は上洛して将軍・義輝に謁見していますが、このときは信長が期待したほどの成果は得られませんでした。
その後、桶狭間の戦い、美濃攻略を経て美濃を平定した信長。永禄10年(1567)ごろにはすでに「天下布武」の印章を用いており、信長がすでに天下を目指して(全国ではなく畿内のみとも言われる)動き始めていることがわかります。
永禄11年(1568)の足利義昭の上洛。永禄2年の上洛のときとは大きく立場も境遇も変わっていました。
光秀は悲運の青年期を過ごす
一方の光秀。城を追われ、朝倉義景を頼って越前に逃れますが、このあたりのことも実はよくわかっていません。『明智軍記』によると、鉄砲の名人として朝倉義景に仕えていたとされています。義景の家臣として順調に出世していったものの、光秀にとっては敵にあたる斎藤竜興が朝倉義景を頼って一乗谷へやってきたので、光秀はだんだん朝倉家中に居づらくなっていった、とのことです。
これには別の説もあり、光秀は義景の家臣ではなく既に幕臣(もしくは将軍の近臣であった細川藤孝の中間)であったという見方もあります。
信長が国の主として着々と領地を広げて天下に目を向け始めたのに対し、光秀はまだ城も持たず、大名の一家臣として不満を抱えながら生きていたようです。
光秀と信長の出会いはいつ?
光秀が信長に仕えようと決めたのは、一説には朝倉義景のもとに斎藤竜興がやってきたことへの不満が理由だったともいわれています。将軍・足利義昭の上洛がきっかけか
通説では、光秀は永禄11年(1568)の将軍・足利義昭の上洛のころから信長に仕え始めたといわれています。当初朝倉義景を頼ってきた義昭は、いつまでも上洛しようとしない義昭にしびれを切らし、「自分は上洛してもいいよ」と言った信長を頼ることになりました。光秀はこのころ義景に仕えていたのか細川藤孝に仕えていたのか不明ですが、どちらにせよ義昭の近臣であった細川藤孝とすでに親しく交流しており、幕府とのつながりがあったのは確かだと思われます。
これ以降、信長に仕えることで、幕府側にも太いパイプを持つ光秀は義昭・信長間の連絡係として働くようになりました。
主君であったとされる朝倉義景はのちに信長によって倒されることになるので、光秀は早々に見切りをつけていて幸運だった。あるいは世の中の変化を鋭い目で見ていたといってもいいでしょう。
残忍な信長と常識人の光秀という見方は誤り
両者の性格についてドラマなど娯楽作品では、信長は自分勝手でやりたい放題、戦では残虐な行為をいとわず、常識人の光秀はそれを諫めていた、というキャラクター設定がよく見受けられます。しかし、実際はそれほど対照的な性格ではなかったのではないでしょうか。信長は合理主義者
キレやすく感情で突っ走る側面も目立ちますが、信長は家臣団の形成においては身分家柄を問わず完全実力主義で人材を集めています。一番わかりやすいところでいえば秀吉です。武士の身分でもなかった秀吉は信長に取り立てられて城持ち大名に。
光秀だって出自ははっきりしていないので、立場は秀吉とどっこいどっこいだったかもしれません。滝川一益や柴田勝家も出自はわからないところが多いのです。
こうしてみると、信長の家臣は信長に仕える前の半生が謎の人物が多い。そういった人材でも実力があれば構わずに登用した信長は、効率を重視して運営していたと考えられます。長年仕えた人間であっても、大した働きがなければあっさりクビにするという一面も効率主義的考えに基づくものでしょう。
また、信長は「いいものはいい」と認める柔軟さも持っていました。オルガンティノやフロイスら外国人宣教師と交流する中で、今まで目にしたこともない西洋の文化を気に入ってあれこれ集めていました。初めて地球儀を見せられ「地球は丸いのだ」と聞かされた信長は、「なるほど」と否定することなく納得したと言われています。
論理的に説明されれば聞く耳をもって話を受け入れ、理解して取り入れた。こういった柔軟さも合理的な考え方のひとつといえるでしょう。
近年見えてきた光秀の一面
常識人で教養人だったという光秀はどうか。今までは暴れる信長を抑えて立ち回る、苦労人の中間管理職といった見方が主流でしたが、近年その性格は見直されつつあります。ハッキリ言うと、光秀にも冷酷な一面はあったということ。
有名なのが比叡山焼き討ちの前に書かれたという書状です。光秀は雄琴城主・和田秀純に宛てた書状に、「仰木の事は是非ともなでぎり仕るべく候」、つまり「焼き討ちに協力しない者らは皆殺しにするように」と命じているのです。
光秀はこういった場で感情に左右されることなく仕事を全うした家臣でした。信長もその有能っぷりを評価していたのではないでしょうか。
光秀はなぜ信長に取り立てられ出世できたのか
幕臣とつながりを持つ光秀は重宝された
大きなきっかけといえばこれでしょう。幕府との仲介役として信長に仕え始めた光秀は、信長のほかの家臣らにはない人脈がありました。戦での槍働きなど武力面ではなく、外交などの政治手腕が重宝されていたと考えられます。光秀は器用なのか、戦でも多数手柄を残していますが、信長の部下としては信長の命令であちこち走り回ったり書状を出したりする働きがよく知られています。
古参の信長家臣の中で光秀は新参者で、いつまでも外様扱いだったと言いますが、光秀にしかない人脈とコネを使って働き、畿内全域を任されるに至ったのです。光秀が近江志賀郡坂本を任されたのは、坂本から近い京都方面に付き合いが多かったから、という理由もあったでしょう。
光秀も合理的な考えを持っていた
また、光秀も信長同様に合理主義者だったのではないか、といわれています。光秀は丹波平定後に軍律を定めているのです。18条からなる軍律・軍法を制定することで拡大した軍の統制を図り、兵の教育につとめました。秀吉はこんなカッチリとした決まりは作らず人間関係を重視していたと言いますが、何も決めずに闇雲に戦に出ても意味がないと、光秀は軍の基本的な法を定めて合理的に戦に挑んだのです。こういう考え方は、信長に通じるところがあると思われます。
なぜ謀反に至ったのか
信長に信頼され、丹波平定後はついに34万石の大名にまでなった光秀。その後も信長は光秀に重要な仕事を任せ、重用していました。本能寺の変の前年、光秀は「家中法度」を定めています。そこからは信長に恩義があることを見て取ることができるのです。蜜月関係といっていいほど良好な関係を築いていた二人。なぜ光秀が謀反を起こしたのか。数々の黒幕説、怨恨説、野望説がありますが、いったい何が動機だったのか、いまだに謎です。
【主な参考文献】
- 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
- 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
- 谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)
- 新人物往来社編『明智光秀 野望!本能寺の変』(新人物往来社、2009年)
- 「信長のルーツ、平氏ではない? 福井に始祖の墓」(日本経済新聞、2011年11月)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄