「朝倉景鏡」主君に引導を渡した?朝倉滅亡に大きく関与。

「獅子身中の虫」という言葉がある。『広辞苑』によると「内部にいて恩恵を受けながら、害をなすもののたとえ」とある。この言葉を聞くと私はどうしても朝倉景鏡(あさくら かげあきら)のことを思い出してしまう。

ただし、この場合「獅子」の方にも大いに問題があったので、「虫」としての景鏡の評判は最悪という訳でもない。私は、どちらかというと「獅子」がふがいないので「虫」が大いに繁殖したという側面が大きいと考えている。

さて、それでは獅子身中にはどのような「虫」が巣食っていたのであろうか。史料の語りに耳を傾けてみよう。

朝倉景鏡は義景の従兄弟

朝倉景鏡は大永5(1525)年、朝倉景高の子として生まれたという。景高は朝倉義景の弟であるから、景鏡は朝倉義景の従兄弟ということになるが、これには諸説ある。

中には、南近江の六角氏からの養子ではないかという異説も存在する。なにせ、義景の幼少期は謎だらけであり、守役の名すら判明していないのである。

六角氏からの養子であったとすれば、それも納得であるが、今のところ確証は得られていない。という訳で、ここでは景鏡と義景は従兄弟同士ということにしておく。

織田信長との戦い

景鏡は一門衆として、朝倉家中で発言力を強めていったものと思われる。式典の席次を調べると、かなり上座のほうに位置しているからである。

また、軍事面においても、重要なポストにあり、戦を好まない当主義景に代わり総大将として出陣することも度々であった。

景鏡は戦だけではなく、権謀術数に長けたところもあったようだ。『朝倉始末記』には永禄10年(1567)年3月、朝倉方の堀江景忠が加賀の一向一揆とともに反乱を企てるも、上手くいかず和睦し能登へ下るという事件が起こるが、これは景鏡の讒言による陰謀だったと記されている。

何というか、この後の景鏡の行跡を見ていくと、虎視眈々と何かを目論んでいる人物であると思えてならない。

この讒言の話には異論もある。というのも、謀反の動きの前に一向一揆の攻撃が始まっているし、後に能登に落ち延びた景忠に対して本願寺の顕如から感状が送られているのだという。

その真偽はともかく、表向きは割と忠臣であった景鏡は少なくとも、志賀の陣までは総大将をしっかり務めている。

どうも、信玄と共同戦線を張って信長と対峙した際に、羽柴秀吉に敗退し、あっさり撤退して信玄に厳しく非難されるなどの体たらくが続いた元亀3(1572)年前後に景鏡の義景に対するスタンスが大きく変わったようなのだ。

事実上の裏切り

天正元(1573)年8月、信長は小谷城を攻撃する。当然盟友であった義景は救援を決断し、自らを総大将とした援軍を送ろうとするが、景鏡は出陣を拒否。

度々の出兵に疲弊したというのが、その理由であったが、実のところはどうか。この時点で、景鏡は義景を完全に見限っていた可能性はないだろうか。

結局、義景自身が北近江に出陣することとなるが、織田軍に敗退し浅井氏も滅んでしまう。この好機を信長が逃すはずはなく、返す刀で越前侵攻を開始したのである。

このとき景鏡は一乗谷から撤退し、大野郡で軍勢を整えることを進言したという。

義景はこの進言に疑問を持たなかったのであろうか。信長に勝てる可能性がほぼないであろう義景に一体どれほどの兵が従うというのか。しかも大野郡は景鏡の領地である。

つまり、それは景鏡の命令ひとつで動く兵がいるということで、いつ寝首をかかれても不思議はないのとは考えなかったのであろうか。

案の定、景鏡は義景に宿所である賢松寺に入ったその翌朝、200騎ほどの軍勢で賢松寺を取り囲み、義景を自害に追い込んでしまう。景鏡は義景の首と捕らえた妻子らを信長に引き渡し、自身はちゃっかり降伏を許されている。

やはり、景鏡は前もってこのシナリオを描いていたのではないか。

おそらく、奉行職にあった前波吉継が 1572年 に織田方へ寝返り、それとほぼ同時に猛将として知られる冨田長繁も寝返ったのを見て、朝倉家は遠からず滅びると踏んでいたのだろう。

本領を安堵された景鏡は、信長の偏諱を受け土橋信鏡と名乗ったとされる。朝倉家滅亡以前の生活を維持できたことにほっと胸を撫で下ろしていたのではないか。

一揆勢の挙兵

しかし、事態は意外な方向に展開する。あの桂田長俊が越前の守護代に、富田長繁が府中領主として任ぜられて越前に舞い戻ってきたのだ。

かつては格下だった長俊に役職の上では抜かれてしまった形となった景鏡であるが、その胸中はいかなるものだったのだろうか。

その後、景鏡が別段何の動きも見せていない所をみると、表向きは悔しさをにじませることもなく、単純に平穏な生活に戻れたことを喜んだ節はある。ひょっとすると、裏では上手く立ち回って越前守護の地位を得ようと様々に画策していたのかもしれないが。

その平穏もつかの間、長俊に不満を募らせた長繁は天正2(1574)年に土一揆を煽動して挙兵し長俊の一族を悉く殺害してしまったのである。

これには景鏡が両者の不仲ぶりを知っていたとは言え、想定外の事態であったろう。

因果応報

そもそもは、織田方の武将となった富田長繁が一揆を煽動した訳であるから、一揆勢は信長方と敵対していたわけではない。

ところが、一揆勢は越前内の信長方の武将まで標的として攻撃し始めたのだ。それはこの一揆が一向一揆に発展してしまったからである。

織田信長は1570年以降10年ほどの間、石山合戦を繰りひろげ、石山本願寺を中心とする一向一揆と対立関係にあった。

そんな訳で、一向一揆化した一揆勢が景鏡を標的としても何ら不思議はない。何せ、富田長繁が信長に人質を差し守護になるつもりであるという風聞だけで反目する連中である。

一向一揆の軍勢に襲われた景鏡は、朝倉氏と近しい関係にあった平泉寺に逃げ込んだ。平泉寺は僧兵という軍勢を持っており、景鏡は共に一向一揆勢と交戦するも、因果応報の結果なのか奮戦空しく討死する。

『朝倉始末記』によれば、わずか3騎での突撃の末の壮絶な死であったという。

あとがき

『朝倉始末記』では、景鏡は陰湿な人物であるように描かれているが、私はそうは思っていない。

そもそもは当主義景を支えていこうという意志は結構あったのではないか。そう仮定すれば、景鏡は最初から「獅子身中の虫」だったわけではないことになる。

それに、義景は決して暗愚な大名ではない。それまで中継貿易頼みだったのを大陸との直接貿易に切り替えて収益を向上させたり、ガラス工芸などの新たな産業の開発にも着手するなど、内政面では名君の片鱗を見せてはいるのだ。

さらに、土岐治英への書状によると、義景は武田氏に仕えた日向宗立から武田流戦術の秘伝を学んだのだという。新戦術を貪欲に取り入れようとする姿勢を持っていたということになる。

景鏡はそこのところはわかっていたはずなのだ。ところが、愛妾や息子の相次ぐ死以降は軍事・政治に精彩を欠くようになっていったという。

特に景鏡が不満だったのは軍事に関してだと思われる。これに対処すべく、景鏡は次第に自分の領土と自分の身を守ることを主に考えるようになっていったというのが私の見立てである。

傍から見れば、それが陰湿な行動に見えてしまったという可能性はあるだろう。それにしても、主君と同じく寺に籠っての死が迫る中、景鏡の胸に去来するものは一体何だったのであろうか。


【参考文献】
  • 太田牛一・中川太古『現代語訳 信長公記』(KADOKAWA、2013年)
  • 松原信之『越前朝倉一族』(中経出版、2006年)
  • 水藤 真『朝倉義景』(吉川弘文館、1986年)
  • 藤居 正規『朝倉始末記 』(勉誠社、1994年)

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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