「氏家卜全(直元)」美濃三人衆の中でも最大の勢力を誇った将の生涯とは

氏家卜全(直元)(うじいえ ぼくぜん / なおもと)は、美濃三人衆の中でも最大の勢力を誇った美濃出身の武将です。かねてより土岐氏や斎藤氏といった美濃の大名に仕えていましたが、織田信長の攻勢が強まると彼の家臣として活躍するようになります。

出家後の名である「卜全」のインパクトから、こちらの名でよく知られる人物ですが、それ以前は「直元」を名乗っていました。この記事では知名度から「卜全」の名で統一します。それでは彼の生涯をみていきましょう。

斎藤家に仕え「美濃三人衆」の一角を担う

氏家卜全は、生年こそ定かではないもののおおむね1500年代の前半ごろに生まれたと推測できます。父は氏家行隆、母は長井利隆の娘と伝わり、美濃国にて土岐氏や斎藤氏に仕えていました。

特に斎藤氏時代には重用されていたようで、6人いた奉公衆の1人として美濃の内政に深く参与していました。それゆえに美濃においては大きな力を保持し、大垣城を管理しつつやがては稲葉一鉄(良通)・安藤守就とともに「美濃三人衆」の一角として活躍します。

第二次世界大戦で焼失する前の大垣城
第二次世界大戦で焼失する前の大垣城

なお、卜全の本姓は「桑原」でしたが、当主の斎藤義龍が一色氏の姓を獲得した際に家臣に対しても同氏がかつて従えていた家臣の姓を名乗らせたことで「氏家」の姓となりました。ただ、卜全以外に姓を与えられた家臣はすぐに姓を改め直したのに対し、彼はその姓を用い続けたため、「氏家」の姓がお気に召したのかもしれません。

ただし、義龍が急死してその子・龍興が当主の座につくと、その指導力不足からか信長の攻勢に押され始めました。その勢力を脅威に感じた家臣らは主君に警戒を強めるよう進言しますが、この言葉が聞き入れられることはありませんでした。

そのため永禄7年(1564年)には家臣の竹中重治(半兵衛)らを中心としたクーデターが勃発し、卜全もこれに協力しました。

のちに秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛
のちに秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛

最終的にこの騒動は重治が占領した稲葉山城を返還したことで終結しましたが、この時点で家臣らの叛意は明らかになっていたといえるでしょう。

龍興を見限って信長に転じる

この事件からも分かるように、家臣らは龍興の資質に疑問を抱いていました。そこで、美濃三人衆は対立していた信長への接近を開始します。

両者の交渉は比較的順調にまとまり、永禄10年(1567年)には三人衆が離反。それを受けて信長は美濃攻略を果たし、龍興は亡命を余儀なくされました。

こうして信長の家臣となった卜全はこの頃に出家し、我々が良く知る「卜全」の名を名乗るようになったとされます。三人衆は基本的にセットで行動しており、信長の上洛に付き添う形で入京して以降、旧臣である尾張衆と変わらぬ待遇を受けることになりました。

ちなみに、三人衆の中で誰が最も権力を有していたかということについては確たる記述がないのですが、イエズス会宣教師のルイス・フロイスは「卜全は美濃の三分の一を領有していた」と述べています。

この内容を鵜呑みにはできないものの、卜全が一番の有力者であった可能性は高いです。元亀元年(1570年)に窮地に陥っていた信長を救援する、という報が彼のもとに届いた際には、信長は卜全に対して低姿勢な文面で感謝を述べているほどです。

こうしたことから彼の家中における権力の強さが想像できます。

最期は武士らしく、殿軍を務めて討ち死

織田家において譜代並みの地位を獲得した卜全でしたが、彼の生涯は突然幕を閉じることになります。

元亀2年(1571年)、長島一向一揆を討伐した際、退却軍の殿(しんがり)を務めたのは柴田勝家でした。しかし、勝家が一揆勢に押されて負傷したため、代わりに卜全が殿を務めたものの、その最中で討ち死にしてしまうのです。

享年は59歳と伝わりますが、『美濃国諸旧記』という軍記物が出典のため、定かではありません。ただし、様々な状況を鑑みれば彼の享年はあながち的外れではない、という指摘もあります。

討死した卜全の首を洗った場所と伝わる「卜全沢」
討死した卜全の首を洗った場所と伝わる「卜全沢」(出所:wikipedia

氏家一族のその後は?

一家の大黒柱である卜全を失った氏家家は、その跡を長男の氏家直通(直重)が引き継ぎました。彼もまた優秀な将であったようで、卜全と同様に「美濃三人衆」の一角として引き続き勢力を保ちます。

直通は天正元年(1573年)に朝倉家へと落ち延びていたかつての主君龍興を討つと、それ以降も信長から厚い信頼を受けていました。一族や家臣にも名を挙げた者が多く、氏家家はやがて名門と目されるようになります。

そのためか、天正8年(1580年)に「三人衆」の同僚である守就が追放された後も織田家に残留し、引き続き重臣として列せられました。本能寺の変以後はすみやかに秀吉の軍門へと下り、彼の家臣として取り立てられたようです。

ただし、直通の跡を継いだ氏家行広が関ケ原で西軍に与したため、戦後に氏家家は改易処分となり一家離散となりました。彼は浪人の立場で諸国を放浪した末に大坂の陣へ参加。戦に敗れたため自刃することになります。


【参考文献】
  • 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興』戎光祥出版、2015年
  • 和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中央公論新社、2017年
  • 谷口克広『織田信長家臣人名大辞典』吉川弘文館、2010年

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  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

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