消えた漂泊の民「サンカ」 多くの謎が残る三角寛の詳細な研究

かつて「サンカ」といわれる人たちが日本国内に多くいました。住んでいたというより、ヨーロッパのジプシーのように山中を移動しながら暮らしていたのです。昭和の高度経済成長期の頃には姿を見なくなり、今では話題にすら上りません。その存在を知る人の方が少ないでしょう。

サンカの実態については三角寛が詳しい論文を書いているものの、その信ぴょう性には疑問符が付いているのが実情です。多くの謎を残したまま、漂泊の民サンカは消えてしまったのです。

箕作りを生業に山中を移動

 サンカの起源については諸説あり、正確には分かりません。「山窩」という漢字が明治時代に警察によって使われ始めたと民俗学者の柳田国男が指摘しています。「山の窩(あな)」とは書いても、山中の穴で暮らしていたわけではなく、山すそや河原にテントを張ったセブリといわれる移動住居で生活していました。そんな漂泊民が昔からいたことは17世紀の古文書にも記載があると柳田が書いています。

サンカは2、3戸単位で移動し、滞在する1~2カ月の間は箕作りを中心とした竹細工を生業としていました。集落を回って箕を売ったり修理をしたりしながら暮らしていたのです。山間部で育った高齢者は、幼い頃に見かけた記憶があるかもしれません。

小説がきっかけで広く知られるように

 そんなサンカが世間で広く知られるようになったのは、昭和に入ってからです。朝日新聞記者だった三角寛が、昭和4(1929)年から毎月のようにサンカをテーマにした大衆小説を発表したことがきっかけです。

「伝奇ロマン」「猟奇小説」など人目を引くキャッチフレーズの山窩小説は広く読まれ、三角寛は一躍人気大衆作家となりました。しかし内容はサンカの超人的な野性味や謎の生活民俗を描く怪異ロマンが多く、一部は事実でも全体的には荒唐無稽の作り話と考えられていました。そのために学術研究の対象とはなりえなかったのでしょう、太平洋戦争が始まると三角寛の名もサンカの存在も語られることはなくなりました。

文学博士号を取得した詳細な論文

 しかし戦後の1960年代に入って突然、三角寛は学術論文「サンカ社会の研究」を発表、東洋大学の文学博士号を取得しました。昭和3(1928)年から同36(1961)年まで33年間にわたる研究の詳細を記録した内容です。その骨子版「サンカの社会」(朝日新聞社刊)で「サンカの実態も私の生涯と共に絶滅して、私の死後はまったく記録することが不可能となる」と書いています。サンカ社会の成り立ちや文化、分布などが詳しすぎて他の研究者が入り込む余地がないような内容で、その後の記録は確かにありません。

 ただ、この論文の信ぴょう性については疑問を投げかける人が少なくありません。たとえば、サンカ社会には「ハタムラ」という厳格な掟があり、毎年1回全国のセブリの長が一堂に集まりハタムラの運用法を相談します。そして長はすべてのサンカに周知するというのです。内容は文字として残されず、部外者には一切口外しないことが定められていました。郵便はもちろん電報や電話も普及した近代において、このような集会を人目を避けて開くことが可能だったのでしょうか。それを裏付ける開催日時や場所の連絡方法などの記述がないのも学術論文としては疑問が残ります。

あぶり出しの秘密記録

 このほかにも、三角寛は多くの研究成果を微細に記述しています。明治43(1910)年の全国のセブリ数は2万3373戸と細かく記し、この数字の出所は三角寛が手に入れた「サンカ秘密記録」となっています。サンカの女性が持っていた白紙を火にあてると、あぶり出された記号のような文字がその戸数を意味していたそうです。このあぶり出しに至るまでの経緯も書かれているのですが、簡単に納得はできず説得力は弱いと感じます。

その後、セブリは昭和24(1949)年には2011戸にまで激減していました。同年に結成された「全日本箕製作者組合」の統計ですが、傘下には地方組合もあったそうです。

優秀な人材を送り出す秘密結社

 論文の中でも驚くのは、「隠密族」(シノガラ)というサンカの秘密結社の存在について書いたくだりです。昭和36(1961)年時で1万8630世帯、8万3880人おり、子女教育に重きを置いて優秀人材を一般社会に送り出しているとのことでした。この隠密族の職業は「官吏、公吏が3分の1、学界がその次、実業方面では相当な者がいる」と述べています。

さらにサンカ社会には、全国でただひとりの最高権威者「アヤタチ」がおり、縦社会の政治組織で構成されていると書いています。柳田国男も「イタカ及びサンカ」の中で、サンカには地方ごとに必ず強い権力を持った親分がいると指摘し、サンカ共同体で暮らして研究した清水精一も「大地に生きる」で厳格な縦関係のある社会だと書いているそうです。

柳田国男は明治26(1893)年、三河西加茂郡の三国山で何百人ものサンカがセブリで露営している光景を見て、1年に1回結婚式を挙げるという話を紹介しています。ですから三角寛の論文のすべてが作り話というわけではなく、事実の範囲が不明なのが研究の特徴ではないかと思われます。論文にはサンカのさまざまな習俗を詳細に記しており、信じがたいというくだりも多くありますが、ほかに文献がない以上、謎の解明については想像するしか方法はないのです。

おわりに

三角寛の娘婿である三浦大四郎は、復刊された「サンカ社会の研究」について「問題の多い本だと思う」「学術書としてはいささか首をかしげるような記述もある」「私が危惧するのは本書が将来、古典的学術書として独立してひとり歩きを初めてしまうのではないか」「活字は恐ろしい。本書に書かれた中身がすべて学問的真実である、と受け止められてよいものだろうか」などと疑問を投げかけています。

サンカの実態は結局は分かりません。しかし日本が古代から近代まで国家として成長していく過程で、正史ではないもうひとつのニッポンに息をひそめて生活してきた漂泊の民がいたことは、疑いようのない事実だと思えるのです。


【主な参考文献】
  • 三角寛「サンカ社会の研究」(現代書館、2001年)
  • 田中勝也「サンカ研究」(新泉社、1987年)

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  この記事を書いた人
Honestpencil さん

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