「有馬晴信」日野江藩初代藩主。キリシタン大名にして南蛮貿易の専門家!

肥前国の島原半島に、有馬という小さな大名が存在していました。有馬晴信(ありま はるのぶ)は凋落しつつある家を継ぎ、領地と信仰を守るために戦います。そして大大名の龍造寺家を打ち破り、海外貿易を駆使して莫大な利益をあげ、ついには徳川幕府の厚い信任を得るに至りました。

有馬晴信は誰と出会い、どんな選択をしたのでしょうか。彼の生涯を見ていきましょう。


肥前の支配勢力・有馬家

永禄10(1567)年、晴信は有馬義貞(よしさだ)の次男として生を受けました。母は安富入道徳円の妹です。


有馬氏は天慶の乱を起こした藤原純友の子孫だと称しています。
実際は肥前国高来郡有馬荘を本貫とする平直澄の末裔だと思われます。


晴信の祖父・晴純(はるずみ)の代には、有馬家は最盛期を迎えました。
晴純が肥前国内の大村氏や千々石氏、波多氏に息子たちを養子として送り込んだ結果、有馬家の領土は高来郡から島原半島一帯の五郡まで拡大し、肥前国における一大勢力となりました。



さらに晴純は龍造寺家兼(隆信の曽祖父)の居城・水ヶ江城を落とすなど軍事的にも活躍し、肥前国の守護職にまで任命されます。


天文年間からはポルトガル船が領内に入港。有馬家は南蛮貿易による莫大な利益をあげることが出来ました。
有馬家の領地は決して肥沃ではなく、度重なる戦火にさらされています。


しかし南蛮貿易によってあげた莫大な利益によって大量の鉄砲を配備しています。
経済的にも軍事的にも、有馬家は一時肥前国の支配者たる地位にあったのです。晴信もその一員として、明るい未来が約束されていたはずでした。


衰退期に家督を相続


元亀2(1571)年、家督を継いでいた兄の義純が早世します。当主となってわずか一年ほどのことでした。これにより、晴信はわずか五歳で家督を継承することになります。


この頃、肥前国の守護職は豊後国の大友宗麟が兼任していました。有馬家に往時の勢いはなく、守護である大友家に従っています。同年には、晴信が宗麟から偏諱を受けるなどしています。関係は決して悪いものではありませんでした。


龍造寺氏の配下に入り、キリスト教に帰依


一方で肥前国内では、龍造寺隆信が台頭。
有馬家は龍造寺家をはじめ、その支援を受けた西郷家や深堀家に圧迫を受けます。
やむなく晴信も、龍造寺家に臣従する道を選びました。


龍造寺隆信の肖像画(宗龍寺 蔵)
下剋上で少弐氏を倒し、肥前国を統一した龍造寺隆信。

領地が高来郡だけになり、有馬家が苦境に立たされている中、晴信はキリスト教に帰依します。
天正8(1580)年には洗礼を受けて「ドン・プロタジオ」の洗礼名を名乗りました。
同10(1582)年にも、大友宗麟や叔父の大村純忠とともに天正遣欧使節を派遣しています。


信仰が精神的な支柱となったことは確かなようです。むしろ晴信の暴走とも言えるべき事態も引き起こしていました。


晴信は、宣教師ジョアンの要求により、領民から少年少女を徴集しようとしています。
さらには、領内の神社仏閣を破壊。破壊した資材でキリスト教育施設を領内に作らせるなどの行動にも及んでいます。


南蛮貿易を行うためにキリスト教の布教を許すことが多かった時代。晴信の行動は一見、信仰に溺れたかのように見えますが、実際は、むしろ信仰を利用して寺社勢力を取り締まる目的があったように考えられます。


沖田畷で龍造寺隆信を討ち取る

やがて九州では、龍造寺家と薩摩国の島津家が勢力を競うようになります。
しかしこのときの龍造寺家中では、隆信の独善的な姿勢が批判を浴びていました。
隆信に反発する家臣の離脱や国衆の謀反が頻発していたのです。


晴信はこれを見つつ、密かに島津家と通じていきます。
天正12(1584)年、晴信は龍造寺方の深江城を攻撃。決戦に及ぶべく行動を開始しました。
結果、龍造寺隆信自らが島原半島に大軍を率いて出陣します。


晴信は肥後国の八代にいる島津家久に援軍を要請。
家久は三千の兵を率いて渡海し、島原に現れます。
島津軍三千、有馬軍が二千。合わせて五千ほどの軍勢でした。



沖田畷(おきなたわて)の戦い。色塗部分は肥前国。赤マーカーと赤線は龍造寺方、青マーカーと青線は島津・有馬方の城と進路。

龍造寺隆信は、二万五千の大軍を率いています。龍造寺勢は大手、浜の手、山の手の三方向から軍勢を展開。沖田畷まで進軍してきます。しかし一本道の隘路により、龍造寺勢は進軍の速度を緩めることになります。


晴信は浜の手から大砲を射撃させ、龍造寺勢を敗走に追い込みます。
それに乗じて、晴信たちは龍造寺本陣を攻撃。見事に隆信の首級を挙げることが出来ました。
この戦で、晴信は自ら陣頭で指揮を執っていました。
戦場では教皇から送られた「聖遺物」を胸に懸け勇戦したと伝わります。


さらに晴信は、合戦に先立って誓願を立てて、浦上の地をイエズス会に寄進していました。
以降、有馬家は島津家の軍門に降った形となります。


天正15(1587)年、豊臣秀吉が九州征伐を行います。
晴信はすかさず島津家と関係を断ち、豊臣軍に参加。九州征伐に従軍しています。


海外との戦で活躍する

中央政界に逆らわず、領地と信仰を守る

晴信は敬虔なキリシタンでした。領内には数万人のキリシタンを保護していたと伝わります。


しかし天正15(1587)年、秀吉は禁教令を発布。キリシタンや宣教師の弾圧に乗り出します。
晴信はこれにもめげず、自身の信仰を捨てずに守り通しました。
晴信は前面に出て中央政権に逆らわず、従うことで信仰を守ったようです。


天正20(1592)年からの朝鮮出兵にも二千の兵を出し、第一軍として釜山に攻め込んでいます。
その後、慶長3(1598)年に帰国するまでの6年間を朝鮮で過ごしました。


慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは東軍に所属します。
しかし晴信は、病のために出陣していません。
名代として嫡男・直純が出撃します。直純は加藤清正に合流し、ともに小西行長の宇土城を攻撃しました。


ここまで晴信は、時代の趨勢を見誤らずに有馬家の舵取りを行って来ています。


ポルトガルの総司令官を討ち取る

慶長8(1603)年、江戸幕府が成立。晴信は肥前日野江藩の初代藩主となりました。


この時、晴信は幕府から朱印状(海外渡航許可証)を貰い、海外との貿易が認められていました。
晴信は南蛮貿易に熱心でした。朱印船の派遣回数は大名の中では最多です。


慶長13(1608)年、事件が起きます。晴信が派遣した朱印船の船員が、マカオ寄港中に取引をめぐって騒動に巻き込まれたのです。マカオを統治していたポルトガルのカピタン(総司令官)・アンドレ・ペソアは鎮圧に出動。晴信側の四十八人が殺害されてしまいます。


晴信はこれに激昂し、家康に仇討ちの許可を求める事態にまで発展します。
こうした朱印船貿易に関わる騒動がありながらも、晴信は海外との交易を続けていきました。


『南蛮屏風』(アムステルダム国立美術館展示)の一部分
『南蛮屏風』の一部分

翌年の慶長14(1609)年、晴信は幕府からある命を受けます。
高山国(台湾)との貿易の可能性を探る任務でした。
徳川幕府は、高山国を明国との出会貿易の拠点にする計画でした。南蛮貿易に通じていたこともあり、晴信がこの大役に抜擢されたのです。


晴信は幕府の貿易政策にも携わるほどに信頼を得ていたことがわかります。
この件は失敗に終わりますが、その後も貿易政策に関わり続けます。


そして同年、因縁のあったアンドレ・ペソアが長崎に入港します。
晴信は多数の軍船でポルトガル船を包囲。しかしアンドレは船員を逃がした上で、船を爆発させて自殺しました。
この事件の影響により、ポルトガル船の長崎来航が2年間途絶えています。


岡本大八事件により、自害に追い込まれる

晴信は、この事件の手柄により旧領回復を画策します。
かつての有馬家の旧領三郡は、鍋島直茂の領地となっていました。


周旋活動のため、晴信は本多正純の家臣・岡本大八に多額の賄賂を送っています。
しかし状況は一向に発展しなかったため、晴信は幕府に訴え出ることになりました。


幕府が大八を捕らえ、金品を騙し取った真実が発覚。しかし同時に思いがけない事態が待っていました。
大八は、晴信が長崎奉行の長谷川藤広の殺害計画を練っていると供述し、これに晴信は釈明できずにその場で捕らえられてしまいます。


大八は江戸で火刑に処され、晴信もまた甲斐国に流罪となり、最期は自害を命じられました。享年五十六。


晴信の最期については、諸説あります。
日本側の記録では、切腹とありました。しかしキリスト教徒側の記録によると、家臣に首を切らせたことになっています。


嫡男の直純は、家康の側近でもあり、家康の養女を正室にしていました。
そのため晴信の事件後も、減封されずに済んでいます。


晴信は貿易によって、幕府に莫大な利益を提供してきました。
そのため、有馬領はキリシタンについて厳しく追及されず、多くの隠れキリシタンが集まりました。


事件後、有馬家が日向国延岡に転封されると事態は変わります。
領内ではキリシタン弾圧が始まり、やがてこれが島原の乱の遠因となっていきました。



【主な参考文献】
  • 山本博文『大名の『お引っ越し』は一大事!? 江戸300藩「改易・転封」の不思議と謎』 実業之日本社 2019年
  • 吉永正春『九州のキリシタン大名』 海鳥社 2004年
  • 外山幹夫『肥前・有馬一族』 新人物往来社 1997年
  • 南島原市秘書広報課 いま蘇る、キリシタン史の光と影。「キリシタン大名としての有馬晴信」

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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