「鍋島直茂」龍造寺家随一の家臣は土豪の出身!佐賀藩の藩祖

明治維新に深く関わり、日本の近代化に大きく貢献したのが佐賀藩です。
戦国時代に藩の礎を築き、藩祖となったのが鍋島直茂(なべしま なおしげ)でした。

直茂は主君・龍造寺隆信を支え、主家の勢力拡大に大きく貢献します。
隆信の死後も主家を守り続け、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いを生き抜きました。

彼は一体誰と出会い、どんな選択をしたのでしょうか。
鍋島直茂の生涯を見ていきましょう。


龍造寺の功臣・鍋島家

肥前国の名門一族の血脈

天文7(1538)年、直茂は鍋島清房の次男として肥前国佐嘉郡本庄村の本庄館で生を受けました。母は龍造寺家純の娘である華渓です。幼名は彦法師丸といいます。


鍋島氏は、宇多源氏である佐々木一族の長岡経秀が鍋島村に居住したことに由来すると伝わります。肥前国の小土豪ながら、曽祖父・経房は龍造寺家の主家にあたる少弐家の出身という家柄でした。


祖父の清久の代より龍造寺家に仕えたと伝わります。
父・清房も周防国の大内家との田手畷(たでなわて)の戦いで武功を挙げ、龍造寺家の発展に大きく貢献しています。


天文10(1541)年、直茂は主君・龍造寺家兼の命令によって千葉胤連の養子となりました。


千葉家はかつて肥前国で随一と称されるほどの大勢力であった家です。
直茂の器量は勿論ですが、後の活躍が期待されていたことがうかがえます。


肥前国の内乱を制する

しかし、天文14(1545)年に事態は一変します。
少弐家の家臣・馬場頼周によって、龍造寺家純らが誅殺されてしまったのです。


龍造寺家兼や隆信(直茂の従兄弟)らは、筑後国に逃亡してしまいました。この事件により、龍造寺家と少弐家は主従でありながら敵対関係となってしまったのです。


父・清房は龍造寺側に付いて行動を始めます。
直茂の養子縁組関係を解消して実家に戻らせました。


さらには一揆を扇動して少弐家に抵抗。馬場頼周の援助をさせないように妨害します。
結果、翌年の天文15(1546)年も馬場頼周は討たれて龍造寺家兼は旧領に復帰します。
家兼の死後、龍造寺隆信が本家の家督を相続することになりました。


天文17(1548)年、清房は隆信の後見役となり家中で重きを成すようになります。弘治2(1556)年には、さらに慶誾尼(隆信生母)が清房の継室となり、直茂は隆信の従兄弟であると同時に義弟となりました。


永禄2(1559)年、龍造寺家は宿敵である少弐家の勢福寺城を攻めます。
攻め手の総大将は直茂が任されました。
直茂は見事に勢福寺城を落城させ、当主である少弐冬尚を自害に追いやります。
これにより、大名としての少弐家は滅亡しました。



家中の先導者となる

大友家の大軍を打ち破る

永禄12(1569)年、豊後国の大友宗麟が肥前に侵攻してきます。
直茂は隆信に籠城策を進言します。その上で安芸国の毛利元就には大友領への侵攻を要請しています。
味方の被害を最小限に抑えつつ、敵により甚大な被害を与える方策でした。


元亀元(1570)年、今度は大友宗麟が六万という大軍で肥前国を脅かします。
敵の先発隊は、大友親貞(宗麟の弟)率いる三千の兵でした。

龍造寺の家中は、籠城か降伏かで沸き立ちます。この時、直茂はただ一人奇襲を隆信に進言しました。他の家臣が反対する中、慶誾尼(けいぎんに)も奇襲を支持し、隆信はこれを受け入れました。

直茂は五百の小勢で出撃します。そのまま敵の大軍の包囲を抜け、今山の敵本陣の背後に兵を伏せました。未明になると、鉄砲を射掛けて虚報を流します。


親貞の本陣では混乱が生じて同士討ちが始まりました。そこへ直茂の部隊が突入。見事に親貞を討ち取ります。
結果、大友軍は肥前国から撤退。龍造寺家が躍進するきっかけとなりました。

このときから、直成の存在感は龍造寺家中で増していきます。


龍造寺隆信の戦死により、家中を取り仕切る

天正6(1578)年、主君・隆信は隠居して嫡男・政家に家督を譲りました。
このとき、直茂は政家の後見人を任されています。

後見人という立場は、かつて父・清房が立ったのと同じ位置でした。直茂はそれほどに信頼と実績を積み重ねていました。

天正9(1581)年、支配下にある筑後国柳川城の蒲池鎮漣(かまち しげなみ)が、薩摩国の島津義久と通じていたことが発覚します。

直茂たちは、蒲池鑑漣を肥前国に誘い出して謀殺。
その後、田尻鑑種とともに柳川城を攻め落とし、自らが同城に入りました。


このときから、直茂が筑後国の国政を担当するようになります。直茂への期待もありましたが、隆信が度重なる諫言を行う直茂を疎んじて筑後に回したという説もあるようです。


しかし天正12(1584)年、沖田畷の戦いで主君・隆信が敗死。直茂は自害しようとするほどに狼狽します。やがて冷静になる肥前国に退き、政家の補佐に徹することに決めました。


戦後、島津家は龍造寺家に隆信の首級の返還を申し入れて来ます。
しかし直成は断固として首級の受け取りを拒否。それどころか、島津家との敵対姿勢を鮮明にしました。


この直茂の行動は、次の講和を有利に進めるためのものでした。
結局、龍造寺家は島津家の軍門に下りますが、あまり不利でない態勢で講和が実現しています。



肥前国の国政を任される

恭順した龍造寺家の軍勢は、大友家の立花宗茂が籠る立花山城の包囲に加わります。
直茂は不利な状況を挽回するため、大坂城の豊臣秀吉と誼を通じていました。
ここで直茂は、豊臣軍による九州征伐を要請していました。


天正14(1586)年、豊臣軍が九州に上陸します。
ここで直茂は島津家との関係を断ち切るべく、迅速な行動に打って出ます。


まず精兵によって肥後国の南関から立花宗茂の母親と妹を救出。
龍造寺軍は島津攻めの急先鋒へと姿を変えます。


秀吉は一連の動きを高く評価します。
九州平定後、龍造寺政家は無事に肥前国三十万石余りを安堵されました。
このとき、秀吉から分知の沙汰が加えられています。直茂は三万石、勝茂(直茂の嫡男)は一万五千石が与えられていました。


さらには秀吉は直茂を肥前国の国政を担当するように命じています。これは政家に代行する形でのことでした。
天正16(1588)年、直茂は龍造寺家中において印章の使用を開始しています。肥前国支配権を誇示する行動だったようです。


同17(1589)年には、直茂と嫡男・勝茂に豊臣姓が下賜されています。
直茂は、中央政権の豊臣家を後ろ盾に国政を行なっていたことが窺えます。


天正20(1592)年からの朝鮮出兵においては、直茂は龍造寺家臣団を率いて出陣。加藤清正が主将である二番隊に参加しています。しかしこのとき、主君である政家との不和が噂されるようになっていました。
実質的に家中を取り仕切るのは直茂であったためです。


文禄4(1596)年には、政家の毒殺を企図しているとの噂が立ちます。
直茂は噂を否定した上で起請文を政家に提出し、身の潔白を主張しています。


慶長2(1597)年、ようやく直茂は勝茂と交代する形で日本に帰国します。
これは直茂が御家騒動を徹底的に避ける方策であったとも考えられます。


佐賀藩の礎を築く

関ヶ原では、西軍でありながら東軍に味方する

慶長5(1600)年、徳川家康と石田三成との間で関ヶ原の戦いが勃発します。
直茂の嫡男・勝茂は、当初西軍に加わります。


直茂は西軍に属しながらも、東軍への接近を試みています。
実際に宇都宮にいた徳川秀忠に米の目録を送っています。これは尾張国から関東までの米を買い占めさせたものでした。
これは徳川家康への良い心証を頂かせる狙いがあったと考えられます。
その後直茂は、本戦に至る前に勝茂を早々と離脱させています。


一方で直茂は国許において、軍事行動に踏み切ります。家康への恭順を示すため、九州の西軍諸将の城を攻撃する役目でした。
直茂は勝茂と共に、三万二千の兵を率いて出陣。
筑後国で東軍の黒田如水に合流し、小早川秀包の久留米城を落とします。次いで立花宗茂の柳川城を降伏させました。


次に目指すのは、薩摩国の島津家でした。
直茂たちの軍勢には、加藤清正も加わります。その総勢は四万ともいう大軍でした。
準備が整った直茂たちは、薩摩を目指して進軍します。
しかし肥後国に至った時、家康からの停戦命令が届いたため、進軍は中止となりました。


龍造寺家との軋轢を乗り越え、藩祖と称される

江戸時代に入ると、直茂たち鍋島家と龍造寺高房(政家の嫡男)らとの軋轢が表面化します。
高房は藩主でありながら、家康の人質となって江戸にいました。
国許では直茂が実権を握った状態でいます。


慶長12(1607)年、高房は直茂を恨んで夫人(直茂の養女)を殺した上で自殺を図るという事件が起きます。高房は肥前に帰国すると、そのまま亡くなりました。


直茂はこの事件に毅然と向き合っています。
旧主・政家に高房の行状を非難する書状を送っています。
さらには龍造寺一門への敬遠政策を取ります。
影響力を弱め、鍋島一門に支藩を立てさせて統治を強化していきました。


直茂は龍造寺家への遠慮があったのか、藩主の座には就きませんでした。
同年、勝茂が肥前国三十五万の龍造寺家の遺領を相続。直茂の後見のもとで佐賀藩の初代藩主となりました。直茂は藩祖と称されます。


元和4(1618)年、直茂は病で世を去りました。享年八十一。
当時としては長命ですが、耳の腫瘍の激痛で苦しんだ末の死でした。
高房の亡霊の仕業ではないかと噂されたと伝わります。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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