「山手殿(寒松院)」は真田昌幸の正妻。真田丸では高畑淳子さんがツンデレ娘「薫」を演じる
- 2020/07/06
大河ドラマ「真田丸」では高畑淳子さんが「薫」という名前で演じられていた公家の娘・山手殿。ツンとしながら夫の真田昌幸を尻に敷くと見せかけて、実は手の平に上手く乗せられているという、どこか憎めないキャラがとても印象的でした。
今回は真田家でもちょっと浮いた感じの幸村の母・薫こと「山手殿」をご紹介します。
今回は真田家でもちょっと浮いた感じの幸村の母・薫こと「山手殿」をご紹介します。
山手殿は公家の出か?
山手殿の生年はよく分かっていませんが、家柄は一般には公家・菊亭晴季の娘と言われています。しかしこの説には無理があります。なぜなら結婚当時の真田昌幸の身分はあくまで武田信玄の奥近習に過ぎないため、公家の娘を妻に迎えることなど到底できないからです。
そもそも菊亭家は公家の中でも摂関家に次ぐ家格です。さらに言えば、昌幸の主君である武田信玄の正室・三条の方の生家である三条家と同格の家柄だとか。このことから、昌幸が菊亭晴季の娘を迎える、というのは考えにくいようです。
他にも高野山蓮華定院に残された記録によると、彼女が信玄の養女扱いで昌幸に嫁いだという説、宇多頼忠の娘とする説、武田家臣・遠山右馬助の娘とする説など、数多くの説があるのですが、いずれも確固たる見解がないようで、研究者によって意見が異なっています。
たしか大河真田丸では、今出川(菊亭)晴季に侍女として仕えていた貧乏公家の娘、という設定にしていましたよね。下級の公家の娘ということなら、そんなに違和感はないようにも思えます。
まだ真田昌幸が武藤喜兵衛と呼ばれていたころ、正室として迎えられた山手殿と昌幸の間には、永禄8(1565)年に長女・村松殿(大河真田丸では「松」)を、その翌年には嫡男・信之、さらに永禄10(1567)年には次男幸村が誕生しています。
しかし真田家はあくまで甲斐武田家に属する先方衆筆頭の身分。山手殿も人質の宿命からは逃れられませんでした。
たびたび人質にされた山手殿の受難
真田家は弱小であり、隣国の傘下に入る信用を得るため、たびたび人質を出していました。山手殿は言わずもがな、嫡男の信之や幸村もしかりでした。天正10(1582)年、武田が滅びる直前には、昌幸が武田勝頼の側近であったため、勝頼の本拠地である新府城に一族で住んでいたようです。
このとき、山手殿ら真田一族は勝頼の許可がおりて人質から解放され、新府を脱出して逃避行の末、真田郷に落ち延びることができています。逃亡中に食糧が無くなり、皆が空腹で立てなくなったと見るや、山手殿は女中に指示して鏡笥から弁当を取り出させて配って回った、なんてエピソードもあります。
武田滅亡後の真田は、一旦は織田家の重臣・滝川一益の傘下に入っていましたが、信長が本能寺の変で討たれると、その後は 上杉→北条→徳川→上杉、というように、主を転々と代えています。
天正14(1586)年に山手殿は、真田が上杉に従属していた関係上、信濃国の海津城に人質として入っていたことがわかっています。
豊臣政権下の天正17(1589)年に、諸大名に妻子の在京の命が下されると、その従属下にあった真田家も例に漏れず、山手殿も人質として京都伏見で暮らすことになったと考えられています。
やがて秀吉が大坂城を築城して大坂に本拠地を移すと、真田屋敷も京都伏見から大坂に移転。山手殿も大阪に移っています。
秀吉の死後は、石田三成と徳川家康との対立が激化。慶長5(1600)年8月に三成が大坂で挙兵した際、真田家は夫の昌幸と次男の幸村が三成方(西軍)に、嫡男の信之は家康方(東軍)に分かれて戦うことになります。
昌幸と幸村が西軍に組したことや、幸村が大谷吉継の娘を正室に迎えている関係からか、山手殿は大谷吉継により、大阪で保護されています。
晩年に出家
昌幸・幸村父子らは第二次上田城の戦いで徳川秀忠隊を相手に奮闘しましたが、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」で三成がわずか1日で敗退。彼らは家臣や妻女とともに紀伊国の九度山に蟄居・謹慎させられることになりました。
山手殿も九度山に付き従うと思われましたが、嫡男の信之が家康の東軍に味方していた影響で、上田の地で暮らすことになっています。
その後、時期は定かではありませんが、山手殿は昌幸・幸村父子が九度山蟄居中に出家して、名を「寒松院」と改めています。昌幸や幸村の罷免を訴え続けたものの、聞き届けられることはなありませんでした。
夫昌幸は慶長16(1611)年6月4日に九度山にて病死。山手殿も後を追うように、それから2年後の慶長18(1613)年6月3日、上田でひっそりと亡くなりました。法名は「寒松院殿宝月妙鑑大姉」。
なお、時期はわかりませんが、彼女は夫昌幸に働きかけ、大輪寺(上田市)を再興しています。山手殿の墓所にもなった大輪寺ですが、真田家が元和8(1622)年に松代城に移転した際、信之が大林寺(長野市松代町)を建立し、彼女の墓も移しています。
奇しくも昌幸の命日の1日前のことでした。さんざん振り回された山手殿でしたが死ぬ時は昌幸に近づきたかったのでしょうか…。6月3日に三回忌を済ませると自害したとという説も残っています。
【参考文献】
- 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』(KADOKAWA、2016年)
- 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄