三角縁神獣鏡は邪馬台国の卑弥呼がもらった鏡? 謎と問題点を解説

古墳の副葬品のひとつである銅鏡には、いくつかの種類があります。中でも「邪馬台国の卑弥呼が魏から下賜された銅鏡ではないか?」と注目を集めてきた鏡が三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)です。

この鏡は何かと問題の多い鏡として、長年多くの議論を生んできました。ここでは、三角縁神獣鏡の謎と問題点について解説します。

三角縁神獣鏡とは?

まずは三角縁神獣鏡の特徴を見てみましょう。

三角縁神獣鏡のかたち

三角縁神獣鏡は銅鏡の一種です。鏡の大きさは直径20~23㎝です。「銅鏡」とよんでいますが、材質は銅と錫(すず)の合金である「青銅」です。博物館などで観る銅鏡は青い錆が付いた状態のものが多いですが、もとは黄金色に輝いていたと思われます。姿を映す鏡面は凸状に膨らんでいます。

名称は鏡の縁の断面が三角形をしていることと、鏡の裏側である鏡背に神仙や霊獣が彫られていることに由来しています。神仙は西王母や東王父などの仙人、霊獣は白虎や龍など空想上の獣で、どちらも中国の神話に登場するキャラクターです。また、背面の中心にはひもを通すための半円状の「紐(ちゅう)」があります。

三角縁神獣鏡の部分名称のイラスト(出典:wikipedia)
三角縁神獣鏡の部分名称のイラスト(出典:wikipedia)

三角縁神獣鏡の出土状況

三角縁神獣鏡は古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀)の古墳、特に前方後円墳から出土することが多く、現在(2023年)までに九州北部から東北南部までの広範囲の地域で500面以上出土しています。なかでも奈良・京都・兵庫・大阪が突出して多く、特に奈良県黒塚古墳からは33面、京都府椿井大塚山古墳からは32面の三角縁神獣鏡が出土しました。

年号が記された三角縁神獣鏡

三角縁神獣鏡には、中国の魏王朝の年号が記されているものがあります。島根県神原神社古墳から出土したものには「景初三年(239)」という年号が刻まれていました。また「正始元年(240)」という年号が刻まれた三角縁神獣鏡が、群馬県蟹沢古墳など3つの古墳から出土しています。

「正始元年」の銘を刻む、蟹沢古墳(群馬県高崎市)出土の三角縁同向式神獣鏡(出典:wikipedia)
「正始元年」の銘を刻む、蟹沢古墳(群馬県高崎市)出土の三角縁同向式神獣鏡(出典:wikipedia)

239年は邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に使いを送り、魏の皇帝から銅鏡百枚などを下賜された年です。魏の使者から倭に下賜品が届けられたのは、翌年のことです。三角縁神獣鏡に刻まれた2つの年号は、いずれも邪馬台国と関係が深いものです。

中国製・日本製・同笵鏡

弥生時代や古墳時代の墓から出てくる鏡には、中国で作られた「舶載鏡(はくさいきょう)」と日本で作られた「仿製鏡(ぼうせいきょう)(現在は倭製鏡とよばれつつあります)」があります。出土した三角縁神獣鏡のうち、鋳造技術や模様の表現がすぐれているものは舶載鏡、下手なものは倭製鏡といわれています。

また、中国製・日本製という区別以外に、同じ鋳型からつくった「同笵鏡(どうはんきょう)」とよばれるものが存在します。三角縁神獣鏡は他の種類の鏡に比べて同笵鏡が多く、離れたところにある複数の古墳から同笵鏡が見つかることも珍しくありません。同笵鏡は舶載鏡、倭製鏡ともに見つかっています。

コラム:弥生時代~古墳時代の銅鏡

銅鏡が墓の副葬品となったのは、弥生時代中期にあたる紀元前3世紀頃のことです。九州北部の墓には、内行花文鏡や方格規矩鏡といった中国・漢代の鏡が副葬されました。

古墳時代になると、内行花文鏡や方格規矩鏡に加え、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡といった鏡が、近畿地方を中心に日本列島各地の古墳に納められるようになります。

卑弥呼が魏からもらった「銅鏡百枚」なのか?

「三角縁神獣鏡=卑弥呼が魏からもらった鏡」という説が唱えられたのは、今から約100年前のことです。その後、研究が進むにつれ、三角縁神獣鏡の意義や問題点が明らかになってきました。

三角縁神獣鏡の研究

「三角縁神獣鏡は、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝から下賜された銅鏡百枚である」という説を唱えたのは、東洋史研究者である富岡謙蔵氏。根拠とされたのは「銅出徐州、師出洛陽」という銘文がある三角縁神獣鏡の存在でした。

その後、1940年~1950年代にかけて各地で三角縁神獣鏡の出土例が増えました。弥生時代や古墳時代の遺物を研究する小林行雄氏は同笵鏡の出土状況などを分析し、三角縁神獣鏡の出土状況はヤマト王権と地方の王の結びつきを反映していると考えました。

同笵鏡の研究や、「景初三年」などの銘を持つ三角縁神獣鏡の存在は「邪馬台国の卑弥呼が魏から下賜された鏡は三角縁神獣鏡であり、ヤマト王権は邪馬台国とつながっている王権(あるいは邪馬台国=大和にあった)」という説を補強することになりました。

三角縁神獣鏡の問題点

一方で「三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から下賜された銅鏡百枚ではない」と主張する研究者も少なくありません。

すでに述べているように、三角縁神獣鏡はすでに500面以上が出土しています。中国からもたらされた舶載鏡とされているものだけでも、400面近くあるといわれており、下賜された100面をはるかに超えています。もうひとつの問題として、三角縁神獣鏡が中国大陸でまだ1枚も見つかっていないことが挙げられます。

こうしたことを背景に「三角縁神獣鏡は“銅鏡百枚”ではなく、それどころか中国で作られたものでもなく、日本で作られたものである」という説が1980年代に出されました。

これに対し、三角縁神獣鏡は魏でつくられた鏡であるとする研究者からは「三角縁神獣鏡が中国大陸で出土しないのは、魏が邪馬台国の要請に応じて作った特注品だからである」といった説が出されています。

近年、三角縁神獣鏡の編年研究(全国で出土した三角縁神獣鏡の製作年代の新古を考古学的手法で明らかにする研究)や、科学的な分析が深まっています。しかし、三角縁神獣鏡が中国で作られた鏡なのか、さらには舶載鏡の三角縁神獣鏡400面近くの中に「銅鏡百枚」が含まれているのか、今も議論が分かれています。

「卑弥呼の鏡か否か」以外の三角縁神獣鏡の意義

三角縁神獣鏡は3世紀半ば~4世紀の古墳から出土することが多いです。出土状況や銘文の内容から、2世紀後半~3世紀前半に日本列島のどこかにあったといわれる邪馬台国と絡めて語られることが多い遺物です。

しかし、邪馬台国の話、あるいは卑弥呼の鏡かどうかという話を抜きにしても、三角縁神獣鏡が古墳時代前期の社会を解き明かすうえで重要な遺物であることには間違いありません。奈良県黒塚古墳では25種類33面の三角縁神獣鏡が出土しましたが、近畿地方を中心に九州から関東までに及ぶ、広範囲の古墳から出土した三角縁神獣鏡との間に同笵関係があることがわかりました。

また、三角縁神獣鏡の背面に描かれた図案を研究することで、当時の支配者層が中国の神仙思想をどのように受容したか知ることができます。

さいごに

三角縁神獣鏡が中国製か日本製かという議論は、現在も続いています。21世紀に入り、三角縁神獣鏡が中国製であることを補強するような論文が多く発表されています。一方、中国大陸から三角縁神獣鏡が出土しない理由については「倭の求めに応じてつくったものだから」という説から進展がありません。

新たな科学分析の技術が開発されたり、新たな視点での研究が進んだりすれば、これまでになかった説が提唱されるでしょう。また、今後中国大陸で三角縁神獣鏡が見つかるなど、新たな発見がある可能性も否定できません。

三角縁神獣鏡は日本列島の国家形成期に関わる遺物であるだけに、今後も多くの人々の関心を集め続けるでしょう。


【参考サイト】

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戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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