「真田信綱・昌輝兄弟」長篠で惜しくも討死を遂げた昌幸の2人の兄

 村上氏に領土を奪われたものの、その後は武田信玄に仕え、村上氏を信濃国から追放して旧領を回復したのが、真田氏初代当主である真田幸綱です。やがて真田氏当主の座は嫡男である信綱が受け継ぎます。

 今回は「真田源太左衛門尉信綱」とその弟である「真田兵部丞昌輝」についてお伝えしていきます。

信綱・昌輝兄弟の前半生

 信綱は天文6年(1537)に幸綱(幸隆とも)の嫡男として誕生。官途名は源太左衛門尉、信は信玄からの偏諱であり、綱は海野氏の通字です。一方、次子の昌輝の誕生は天文12年(1543)か翌天文13年(1544)とされており、官途名は兵部丞です。二人の母親は河原隆正の妹だと考えられています。

 真田氏は海野氏の一門衆であり、父の幸綱は信玄に仕えるまで海野氏に属していました。真田氏の通字が幸に変わるのは、三代目当主である真田昌幸からです。昌幸は幸綱の三男で信綱の弟にあたります。


 真田氏が旧領を回復したのは、天文20年(1551)に幸綱が調略によって砥石城を攻略して以降のことです。なお、二人の初陣や出仕時期など、前半生についての詳細はほとんどわかっていません。天文22年(1553)には三男昌幸が人質として武田家に預けられていることから、2人も早い時期において信玄に出仕していたと考えられています。

信綱の正室は高梨氏の於北

 このころ、信綱は正室を迎えたと考えられています。相手は信濃国で村上氏と対立や同盟を繰り返していた高梨氏で、高梨政頼の養女(または妹)である「於北」(御北)です。

 政頼は信綱を自分の陣営に引き抜くためにこの婚姻話を持ちかけました。幸綱は、信綱の婚姻自体は承知したものの、信玄に背くことは拒否したといいます。やがて高梨氏は上杉氏と通じていくため、武田氏と完全に敵対関係となり、信綱は於北と離別しています。

 子どもは娘がおり、昌幸の嫡男である真田信幸(信之)に嫁いで、真田信吉を生んでいます。実は男子もいて「与右衛門」という名前で越前藩士になったという説もあります。

 信玄と謙信の大激闘となった永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いの際には、信網は父幸綱とともに別働隊に属していたといいます。ただし、これは『甲陽軍鑑』による記述なので、信ぴょう性に疑問が残ります。

 ちなみに確かな史料で信綱の名が初めて登場するのは、永禄5年(1562)の信濃国四阿山奥宮社殿の修造の際です。こちらは真田氏の氏神とされており、信綱の署名が扉書に残されています。この頃は、信玄による西上野の経略で、父の幸綱が上野国吾妻郡攻略に動いているので、信綱・昌輝兄弟も従軍していたと思われます。

信綱が家督を継いだ時期

 これまで、信綱が家督を継いで当主の座にいたのは、わずか1年ほどだと考えられていました。父幸綱が病没した翌年には信綱・昌輝兄弟も長篠合戦で討ち死にしているからです。

 しかし、最近の研究によって元亀元年(1570)4月までには家督を継いでいたことがわかっています。信綱が戦場で活躍した初めての戦いは、永禄10年(1567)の上野国白井城の攻略です。父親の幸綱と共に攻め、城主である上杉方の長尾憲景を追放しました。このときに家督を相続したのではないかという説もあります。

 隠居した後も実権を握っていたのは幸綱でしたが、長ければ8年間ほど信綱が当主だった可能性もあるのです。

信濃国先方衆では破格の扱いを受けた

信濃国先方衆の最大兵力

 一度は敵対し、その後服従した国衆を「先方衆」と呼びますが、真田氏は信濃国の先方衆の中でもっとも力を持っていました。これは幸綱が砥石城攻略をはじめとして大きな手柄をいくつもあげてきたからでしょう。

 『甲陽軍鑑』によると、真田氏当主である信綱は200騎を従えています。これは同じく信濃国先方衆の栗田氏160騎、蘆田依田氏・下条氏の150騎を大幅に上回るものです。

武田二十四将図(武田神社 蔵)
武田二十四将図にも描かれる信綱・昌輝兄弟

 信綱は基本的には上野国の岩櫃城におり、上杉勢を監視し、西上野を守る役割を担っています。信玄の信頼は厚く、西上野最大国衆の小幡氏と共に「御譜代同前」(譜代同然)の扱いを受けていました。

 ただし行政権までは認められていなかったようで、信綱は上野国吾妻郡の国衆(鎌原・湯本)への軍事指揮権を与えられています。

 信綱は『本藩名士小伝』によると、永禄11年(1568)12月の第一次駿河国侵攻の際には参加しており、駿河国蒲原城攻略を信玄より命じられています。その後は岩櫃城で守りを固めていますので、信玄の西上作戦には参加していません。

幸綱の次子・真田昌輝

 昌輝の活躍ぶりはほとんど記録に残っていませんが、信綱とは別に50騎を従えていたことや、別家を起こすことを許可されていましたので、信玄にその才能を認められていたと考えられます。昌輝も兄の信綱同様に長篠戦いで戦死してしまいますが、仮にふたりが生きていたとしたら、真田氏はさらに分かれていたことでしょう。

 ふたりの戦死後に弟の昌幸が家督を相続しますが、この際に受け継いだ信綱と昌輝の領土はあわせて1万5千貫文ということですから、信綱・昌輝兄弟が信濃国で最大勢力だったことは間違いありません。

 昌輝の妻がどのような人物だったのか、子どもはいたのかなどははっきりしていません。信綱の死後、真田氏の家伝文書は昌輝の子孫に受け継がれ、越前藩士になったという説もあります。

長篠合戦での最期にはふたつの説がある

織田勢の陣営に突撃し戦死

 信玄の死後、当主となった武田勝頼は領土を拡大し、天正3年(1575)5月、ついに織田氏・徳川氏の連合軍と長篠の地で激突します。

 信綱・昌輝兄弟も主力として参加しており、『甲陽軍艦』『真武内伝』には馬場信春らと共に右翼を担当したと記されています。そして前田利家、福島平左衛門尉が備える織田勢の陣営を攻めています。

 連合軍は馬止めの柵を三重にして守りを固めており、信綱兄弟は一番目の柵を突破するも敵の一斉射撃を受けて戦死しました。『甲陽軍艦』にはさらに二番目の柵も破り、敵兵を16人討ち取ったところで真田部隊は壊滅したと記されています。壮絶な討ち死にです。

 この戦いで真田氏は当主の信綱、弟の昌輝だけではなく、生母河原氏の河原宮内助正吉、河原新十郎正忠、幸綱の弟・真田隆永の孫にあたる常田図所助永則、滋野一族からは禰津氏当主の禰津神平月直、望月氏当主の望月信永が討ち死にしています。

 真田氏はこの長篠の戦いの敗戦で大きな損害を受けているのです。跡を継いだ昌幸はこの立て直しにたいへん苦労したことでしょう。

殿を務めて戦死

 一方で信綱兄弟は突撃で戦死したのではなく、その後の撤退時に戦死したという説もあります。

 『信長公記』には撤退する勝頼を追撃し、その際に信綱の首を討ち取ったと記されています。この追撃戦はかなり過酷だったようで、勝頼は才の神から甲田に逃れ、ここで信玄から受け継いだ諏訪法性の兜を捨てたとされています。

 さらに宮脇、浅木、出沢、銭亀、鵜の首、小松が瀬と落ち延びていくのですが、信綱の墓所があるのは宮脇です。勝頼を逃がすために、殿としてここで命を落としたのでしょう。墓所が残されているので有力な説です。

 なお、信綱の首は家臣の白川勘解由兄弟が、信綱の陣羽織に包んで帰還し、菩提寺となる信綱寺に葬ったとされています。

 後年、信綱の血痕が残った陣羽織が発掘され、現在は信綱寺に収蔵されています。また信綱の愛刀である青江貞次の太刀も持ち帰っており、こちらは現在、真田宝物館に保管され、重要文化財に指定されました。

おわりに

 おそらく信綱と昌輝は織田勢の陣営に果敢に攻め込み、鉄砲傷を受けながらも兵を返し、その後で勝頼の撤退を手伝ったのではないでしょうか。

 勝頼はこの敗戦で多くの有能な武将を失いましたが、信綱・昌輝兄弟もまさにそのひとりに数えられます。そして真田氏の行く末は弟の昌幸に託されたのです。


【参考文献】
  • 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』(KADOKAWA、2016年)
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社 、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)
  • 平山優『真田三代』(PHP研究所、2011年)
  • 平山優『新編武田二十四将正伝』武田神社、2009年

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。