「足利義澄」将軍家の家督相続争いに振り回された第11代将軍

室町時代に起こった内乱として最も有名な「応仁の乱」は、そもそも三管領家の畠山氏と斯波氏の家督相続争いから始まった内乱です。これに将軍家が巻き込まれる形で11年も続くのですが、乱が終結した後も余波は続きます。

将軍家、そして応仁の乱以降管領を独占した細川京兆家の内乱。これは代替わりを繰り返しながら、室町幕府が終わるまで続きます。室町幕府第11代将軍・足利義澄(よしずみ)が将軍職に就いたのはそういう時代でした。

堀越公方・足利政知の子

義澄(清晃→義遐→義高→義澄と改名しますが、ここでは便宜上「義澄」で統一)は、文明12(1480)年12月15日、堀越公方の足利政知の次男として伊豆で誕生しました。母は武者小路隆光の娘です。

堀越公方である父の後継は嫡男の茶々丸が継ぐことが決まっていたため(※のちに北条早雲に攻められ堀越公方は滅亡)、義澄は叔父である第8代将軍・義政により、文明17(1475)年に5歳(数えでは6歳)で京都にある天龍寺香厳院の後嗣に定められました。

義澄はこの2年後の長享元(1487)年6月に上洛すると、香厳院に入って剃髪し、清晃と号しました。


細川政元に擁立され、11代将軍へ

第9代将軍の義尚は将軍に就任すると、幕府の権威回復のため六角氏討伐のため近江に出陣しました。この若い将軍には後継者になりうる実子がいなかったため、後継者問題が起こります。

足利義尚の肖像画(地蔵院蔵)
長享3(1489)年、近江六角氏の討伐の陣中で病死した足利義尚

ふたりの次期将軍候補

義尚の後継者として、ふたりが候補に挙げられました。

ひとりは、義尚の従兄弟にあたる義稙(義材※ここでは便宜上「義稙」で統一)です。義稙は応仁の乱で義尚と対立した義視(義政の弟)の子であり、母は義政室・日野富子の妹・良子です。

もうひとりが義澄でした。義澄の父・政知は義政の異母兄ですが、代々足利将軍家と婚姻を結んできた日野家の女性を母にもつ義政が将軍職を継いでおり、政知は伊豆の堀越で堀越公方となっていました。

富子は妹の子である義稙を推しました。日野家以外の血を引く者を将軍にしたくないという思いがあったものと思われます。一方で細川政元は義澄を推していましたが、結局義尚の死後に第10代将軍となったのは義稙でした。

足利義稙の肖像画
義澄の従兄弟にあたる将軍職争いのライバル、10代将軍足利義稙の肖像画。

なお、富子は義尚と暮らした小川御所を義澄に譲りましたが、義稙の父である義視はこれに激怒し、この御所を破却しています。

明応の政変で将軍に

将軍職に就けなかった義澄ですが、すぐに転機が訪れます。

後継者問題が起こった当初より義稙の擁立に反対していた細川政元が、自身の意見をないがしろにする義稙を排除するのです。

政元は明応2(1493)年4月、義稙が河内の畠山基家討伐に出陣している間にクーデターを起こし、かねてより次期将軍にと推していた義澄を擁立。

河内の義稙軍では、クーデターの報せに動揺した大名たちが次々と帰京して政元側につき、義稙は降伏を余儀なくされます。その結果、将軍家伝来の鎧と刀、家督が義澄に譲り渡されました。

政元に擁立された義澄は4月28日に還俗すると、義遐(よしとお)と名を改め、さらに6月19日には義高と改めました。この時、後土御門天皇から宸筆(天皇自筆)の名字を賜っています。

その後、明応3(1494)年11月には正五位下、左馬頭に叙任されると、翌12月27日に征夷大将軍に任ぜられました。


政元との対立

政元に擁立されて将軍となった義澄でしたが、ここから手に手を取って仲良く政権運営、とはいきませんでした。

義澄の元服

将軍就任に先立って12月21日に元服の儀式が行われる予定でした。しかし、加冠役の政元が烏帽子を被ることを嫌がったことで延期され、義澄のめでたい日は泥を塗られてしまいました。

政元はこのように、最初から義澄を将軍として立てるつもりが一切なかったことがわかります。そもそも政元のこの非礼がまかり通る時点で、政元と義澄の力関係がよくわかります。

政元・貞宗への要求

義澄は若い将軍でしたが、成長するとともに自身の手で政務を行おうとし、それまで以上に政元と対立するようになります。

文亀2(1502)年、政元は出仕せず引きこもりました。

この年の7月12日に義澄は参議に昇進し、従四位下、左近衛中将に叙任されると、名を義澄に改めます。この返礼として朝廷に拝賀を行おうとしますが、義澄の任官を「無益」とする政元によって反対され叶いませんでした。

ちなみに、政元は後柏原天皇の即位礼も無駄だと言って反対したため、即位礼は即位の22年後に行われることになります。

政元が機嫌を損ねて引きこもったかと思えば、今度は義澄が引きこもります。

8月4日、岩倉の妙善院(金龍寺)に入った義澄を説得しようと、政元と伊勢貞宗が駆けつけますが、義澄は会おうとせずそれぞれに要求を突き付けました。政元に対しては、後柏原天皇の即位礼の費用、内裏警護などの5か条、貞宗に対しては7か条が要求であったようです。

義忠を処刑

この時、義稙の弟である実相院義忠が見舞いに訪れていましたが、義澄は義忠とも対面しようとせず、政元に彼を殺害するよう要求しています。

義忠には何ら罪はなかったと思われますが、義澄にとっては自身の立場を揺るがしかねない邪魔な存在でした。

兄の義稙と連携される恐れがありますし、出家した僧侶であるとはいえ、義澄自身も出家の身から還俗して将軍になった経緯を考えると、今関係の悪い政元が義忠を擁立して義澄を排除する可能性もあったでしょう。

政元にとっては言うことを聞かない義澄の代わりにできそうな大事な切り札を失うことになりましたが、義澄は不安材料がひとつ消えて安心したことでしょう。

近江に逃れ失脚

その後も政元と対立しつつ政務を行っていた義澄ですが、永正4(1507)年6月に政元が暗殺された(永正の錯乱)ことをきっかけに地位が揺らぎます。

政元は細川京兆家の家督をめぐって争う養子と内衆によって暗殺されました。政元の養子は、澄之、澄元、高国の3人。暗殺は澄之を擁立する家臣によって行われましたが、澄之は高国によって討たれ、家督は澄元が継ぐことになりました。

永正の錯乱と人物相関
※参考:永正の錯乱(政元暗殺)の人物相関。()数字は出来事の年。

しかし今度は澄元と高国が対立し始めます。この細川京兆家の混乱に乗じて現れたのが先の将軍・義稙です。大内義興を頼って周防に滞在していた義稙は、義興とともに上洛。澄元と対立する高国はこの義稙と手を組みました。

義澄と澄元は、義稙が上洛すると近江へ逃れました。15年ぶりに京へ戻った義稙が将軍に再任され、義澄の政権は終わりを迎えました。

義澄の最期

近江の義澄は義稙に刺客を送って暗殺を試みますが、義稙自ら刀をとって撃退したことで失敗。永正7(1510)年2月の戦いで惨敗すると、一時は近江国人衆を味方につけて勝利します。

永正8(1511)年、澄元とともに決戦の船岡山合戦に臨むべく準備を進めていましたが、義澄はその直前の8月14日に水茎岡山城で病死。突然のことでした。

将軍に返り咲くことは叶いませんでしたが、対立していた義稙の時代もそう長くは続きませんでした。義稙の次に将軍に就任したのは、義澄の遺児である12代義晴です。
その後も将軍職は13代義輝(義晴の子)、14代義栄(庶子の義維の子)、15代義昭(義輝の弟)と、室町幕府は義澄の血筋が継いでいくことになるのでした。

義澄は決戦前に無念の最期を迎えたものの、その死後、義晴の将軍就任前の永正18(1521)年8月12日に従一位左大臣が贈られ、また、義晴の意向で天文2(1533)年9月12日に太政大臣が追贈されています。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 丸山裕之『図説 室町幕府』(戎光祥出版、2018年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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