「南部信直」南部家中興の祖は、先代殺しの謀反人!? 庶流ながら宗家を継いだ名君

戦国時代、南部家は東北に広大な領地を獲得します。その隆盛ぶりは「三日月の丸くなるまで南部領」という言葉に表れています。


世子・南部信直は庶流の出身ながら、当主・晴政との政治闘争に勝利。反対派を打ち倒して家督を相続します。そして天下人・豊臣秀吉に認められて本領を安堵されました。


信直はいかにして家督を勝ち取り、盛岡藩の礎を築いたのでしょうか。南部信直の生涯を見ていきましょう。


南部宗家の世子となる

天文15(1546)年、南部家第22代当主南部政康の次男・石川高信(津軽石川城主)の庶長子として岩手郡一方井城で生まれました。母は一方井安政の娘・芝山芳光大禅定尼と伝わります。


幼名は亀九郎と名乗りました。
信直は長男ではありますが、側室の子供として生まれています。
母方の城で生まれていることからも、石川家の家督を相続する立場ではないと見られていた様です。


しかし二十歳のとき、信直に転機が訪れます。
永禄8(1565)年、従兄の第24代当主・南部晴政に男子がなかったために、晴政の長女の婿となり、養嗣子として三戸城に入ることとなりました。


分家当主の庶長子が、宗家を継承することは異例なことです。
信直の能力は勿論、その将来性が大いに期待されていたことは間違いなさそうです。


信直は期待に応えるため、実績を積んでいきます。
永禄9(1566)年同11(1568)年には、鹿角郡に侵攻した安藤愛季の軍勢を撃退するなど武功を重ねました。


家督争いの勝者となる

家督をめぐる内紛

しかし元亀元(1570)年、信直の期待は打ち砕かれてしまいます。
晴政に実子の鶴千代(晴継)が誕生したのでした。これにより、信直は次第に晴政から疎まれるようになっていきました。


元亀2(1571)年、南部一族の大浦為信(後の津軽為信)が、信直の実父・石川高信の石川城を急襲。
高信はこのときに自害したとも(生存説もあり)伝わります。


この急襲は、晴政が為信をけしかけたという説があります。実際に晴政は、石川領奪還の兵を出し渋り、信直の怒りを買っています。


さらに晴政は信直暗殺を企図した行動を取り始めました。


『八戸家伝記』によれば、元亀3(1572)年、信直は川守田村にある毘沙門堂に参拝に出かけ、その際、晴政は自ら手勢を率いて襲撃に及びます。信直は鉄砲で晴政を狙撃して落馬させたといいます。さらに晴政を解放した九戸実親(政実の弟。晴政の次女の婿)にも銃撃を命中させたと伝わります。


信直は最大の庇護者であった実父を失い、同時に養父からは命を狙われていた状況でした。
家督相続にあたり、信直の立場は抜き差しならないものとなっていたのです。


南部家臣の城を彷徨う

天正4(1576)年、信直の正室(晴政の長女)が亡くなります。信直はこれを機会に世子の立場から退きました。


その後、身の危険を感じて田子城に引き籠ります。その後も北信愛の剣古城や八戸政栄の根城に移って身を隠しました。
一連の動きは、逃亡と同時に多数派工作の一環であった可能性があります。北信愛も八戸政栄も、のちに有力な後援者として家中に名を連ねています。


晴政はこれらの信直の動きに対してますます警戒感を抱いたようです。
これ以後、南部家の内部は二つに分かれて対立していきます。
晴政・晴継親子には、有力な南部一族である九戸政実が従い、信直には南長義や北信愛らが支援していました。


血塗られた家督相続

しかし事態は、またも急変することになります。
天正10(1582)年、晴政が病没。後を継いで当主となった晴継は、間もなく十三歳で夭逝してしまいました。


南部家の当主が不在となったため、南部一族と重臣たちは大評定を行います。
後継者には、九戸政実の弟の九戸実親を推す声も強くありましたが、北信愛が事前に八戸政栄を調略、南長義の支持もあり、信直の家督相続が認められます。


しかしこれらの決定に、九戸政実は遺恨を抱きます。これ以降、政実は公然と南部家当主を自称。家中に不穏な空気が立ち込めていきました。


これらの当主交代劇は、実際には血塗られたものでした。一説によると、晴政と晴継は病死ではなかったようです。家督を巡る争いによって二人共命を奪われたとも伝わっています。


このうち晴継は晴政の葬儀の帰途、暴漢に襲われて命を落としたといいます。その指揮をしていたのが信直や北信愛、あるいは九戸政実だといわれました。


しかし晴継の葬儀を終えた際、信直も何者かに襲撃されています。内紛の火種は、確かに南部家の家中に舞い始めていました。


仇敵との戦いを制する

豊臣家に臣従し、本領安堵が認められる

天正14(1586)年、信直は高清水斯波家当主・斯波詮直を討って勢力を拡大します。
同年ごろには、北信愛を通じて豊臣政権で大老となる前田利家との関係が始まっています。このとき、豊臣政権への臣従を表明したようです。

天正18(1590)年、信直は豊臣秀吉の小田原の陣に参加します。信直は一千の兵を率いていました。


戦後、宇都宮において奥州仕置が行われます。南部家は七郡を安堵され、朱印状も発布されました。
このとき信直は失った津軽(旧石川)領の領有も主張。しかしこれは認められませんでした。


津軽為信は、信直よりも一月早く秀吉と謁見していたといいます。そこでいち早く豊臣家への臣従を表明し、所領安堵が取り付けられていました。信直にすれば為信は実父の仇であり、到底認められるものではありませんでした。

しかし信直は変わらず豊臣家に従い、同年の奥州遠征の際には、浅野長政と共に豊臣軍の先鋒を務めています。


九戸政実の乱を鎮圧する

奥州仕置の後、東北地方では葛西大崎一揆や和賀・稗貫一揆が勃発します。
信直も一揆鎮圧のために出兵。稗貫家の居城であった鳥谷ヶ崎城から、浅野長政を救出するという手柄を挙げています。


天正19(1591)年には、家督相続で対立した九戸政実が五千の兵で乱を起こすに至ります。
九戸勢は精鋭揃いであり、家中の内紛であるため恩賞がないため、日和見の家臣も出ています。


信直は苦戦の末、秀吉へ援軍を要請します。豊臣秀次(秀吉の甥)を総大将とした大軍が派遣されて来ました。
討伐軍の中には、浅野長政や蒲生氏郷、石田三成が加わっていました。ここに奥羽からも秋田実季や津軽為信が加わり、総勢六万という軍勢となります。


政実の乱は半年にも及びましたが、結局は降伏で幕を閉じました。
鎮圧後、信直は九戸政実と弟の政親を処刑。家督相続に生じた憂いを完全に取り除いています。



盛岡藩の基礎を確立する

十万石の大名となる

しかしその後も問題は続きました。討伐軍の中には、仇敵である津軽為信が加わっていたのです。


信直は、浅野長政に対して敵討ちを願い出るに至りました。
浅野長政は当然拒否しますが、信直はおさまりません。今度は蒲生氏郷を通じて、敵討ちを願い出て来ます。
浅野長政は不足の事態を憂慮して、為信を津軽に帰還させています。


しかしこれらの信直の行動は、遺恨に駆られたものではない可能性があります。後々の恩恵を受けるための政治的圧力であった可能性があります。


九戸政実の乱後、九戸城は蒲生氏郷により改修されました。信直は三戸城から同城に居城を移し、福岡城と改称します。
さらに信直は、豊臣家から加増を受けることになります。
為信によって奪われた津軽の三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地が与えられました。現有の七郡に合わせ、和賀郡と稗貫郡の加増です。


これにより、信直は九郡十万石の大名となりました。


同年、嫡男・利直と共に上洛して秀吉に感謝の意を述べています。
信直は為信への遺恨を滲ませながら、それを巧みに利用したようです。争うことなく、加増を受けることに成功しています。
信直は豊臣政権の力を背景に、天正20(1592)年までには、当主としての地位を確立されていました。


盛岡城を築城する

信直は以後も豊臣家に従い、有事にも力を貸しています。
文禄元(1592)年、信直は朝鮮出兵に赴くべく、一千の兵と共に九州の肥前国・名護屋城に向かいます。
結局は渡海することなく、翌文禄2(1593)年に国許への帰還を許されています。


名護屋城から帰還後、信直は居城を盛岡に定め、築城に着手して領内の基盤固めに専念しています。
九戸政実の乱後の仕置により、南部家は伊達政宗と領地を隣接することになっていました。
盛岡への居城移転は、野心家である伊達政宗の侵略から領地を守るための措置だったようです。


慶長3(1598)年、秀吉が病没します。信直はすかさず徳川家康に接近していきました。
盛岡城完成を間近に控えた翌慶長4(1599)年、信直は福岡城で病により世を去りました。享年五十四。墓は三光院にあります。


最後に千夜姫(長女)に宛てた手紙で、体調は大事なく、海藻が食べたいと綴っています。
南部家は長男・利直が継ぎました。




【主な参考文献】
  • e-いわてまち.ねっと 「南部信直」
  • 阿部猛編 『戦国人名事典』 新人物往来社 1990年
  • 七宮涬三 『陸奥南部一族』 新人物往来社 1987年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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