戦国北条氏家臣団・江戸衆筆頭「遠山氏」とは

 戦国北条氏において、御一家衆に匹敵する地位にあったのが江戸衆寄親を長く務めた「遠山氏」です。古河公方を支援し保護するという重責も担っており、北条氏の宿老を代表する存在でしたが、当主が代わるごとに果たす役割は低下していきました。今回はそんな北条家臣の遠山氏の歴史についてお伝えしていきます。

家老筆頭としての武蔵遠山氏

遠山氏初代当主が北条宗瑞に仕える

 戦国北条氏の家臣である遠山氏は、元は室町幕府の奉公衆である美濃遠山氏の系譜とみられており、堀越公方である足利政知の伊豆下向に従っています。しかし、堀越公方は伊勢宗瑞(北条早雲)に滅ぼされており、遠山氏(武蔵遠山氏)はこの後に宗瑞に仕えるようになったと考えられます。それが初代当主である遠山直景です。

 直景の名前が史料に登場するのは、宗瑞が小田原城を攻略した直後の永正3年(1506)からです。この時期には北条氏に仕えていたことがわかります。

 北条氏二代目当主である北条氏綱が家督を継いでからは、さらに重用されたようで、大永3年(1523)には氏綱が箱根権現社修造を命じており、北条氏家臣の中で唯一、棟札に署判したのが直景でした。

 直景は、氏綱と古河公方足利高基との交渉役を務める他、山内上杉氏との和睦交渉も行っており、氏綱からとても信頼されていたことを物語っています。また大永4年(1524)に北条氏が武蔵江戸城を攻略すると、その城代を任され、江戸衆寄親となっています。

 直景の官途名は隼人佑、受領名は丹波守でこれは遠山氏当主が代々引き継いでいきました。直景は天文2年(1533)に死去し、家督は嫡子の遠山綱景が継承しています。


古河公方の保護者も務める

 綱景の仮名は藤九郎、官途名は隼人佑、受領名は丹波守、甲斐守です。父親である直景が亡くなった翌年の天文3年(1534)には小弓公方足利氏との外交を任されていることから、直景同様に重用されていたことがわかります。

 北条氏三代目当主の北条氏康になってからも待遇は変わらず、天文10年(1541)の津久八菅権現社修造の際には大壇那として津久領主の内藤康行と並び名前を連ねている他、天文19年(1550)の伊豆山権現社への鰐口寄進では、家臣筆頭と記されています。

 さらに今川氏や武田氏など近隣の有力大名との外交交渉も氏康から任されており、永禄元年(1558)には古川公方足利義氏の鶴岡八幡宮参詣では先導役を務めました。

 ここで特筆すべきは遠山氏が古川公方の保護者的な役割にあった点です。

 天文22年(1553)、氏康は足利義氏のために下総葛西城に御座所を立てています。葛西地域は遠山氏の管轄下で、下総にある北条氏唯一の分国でした。この後、永禄元年(1558)に下総関宿城に移座し、さらに永禄4年(1561)には攻め寄せてきた上杉謙信の軍勢に包囲され、下総小金城に移り、その後も上総佐貫城へと移りましたが、すべて綱景がその支援をしています。

 このように譜代の家臣の中でも別格だったのが遠山氏です。氏康によって永禄2年(1559)に作成された『北条家所領役帳』には、重臣たちの知行が記録されていますが、綱景の知行は御一家衆の北条宗哲、宿老の松田憲秀に次ぐ三番目の2048貫文で、これは北条三郎や北条綱成をしのぐものでした。

 綱景の代までは、遠山氏は間違いなく北条氏家老を代表する存在だったわけです。

衰退していく遠山氏

綱景の国府台合戦での戦死

 綱景の娘は氏康の養女として、江戸衆寄親のひとりである岩付太田氏当主の太田康資に嫁いでいます。

 北条宗家と遠山氏、そして岩付太田氏は強い結びつきを持ったはずでしたが、この康資が氏康に不満を抱き、上杉氏や里見氏と通じて謀反を起こします。

 謀反は失敗しましたが、その後、北条勢と里見勢が激突したのが永禄7年(1564)の国府台合戦です。綱景は娘婿の裏切りを見抜けなかったことに責任を感じていたようで、果敢に突撃を行い、嫡子である遠山隼人佑と共に討ち死にしています。

 綱景には藤九郎という嫡子がおり、岩付太田氏の娘を正室に迎えていましたが、天文16年(1547)に死去しており、次子である隼人佑が嫡子となっていたのです。その隼人佑までも死去してしまったため、さらに下の弟の遠山政景が家督を継いでいます。政景は相模大山寺八大坊の僧侶でしたが、北条氏政の指示で政の偏諱を賜って還俗しました。

 ただし、この政景の代で遠山氏の権威は低下していきます。古河公方の保護者的な役割は、元亀元年(1570)までで、その後は下総栗橋城の北条氏照がこの役割を引き継ぎました。

 また、政景は江戸城代で、江戸衆の寄親でしたが、元亀2年(1571)で江戸城代を解かれ、その後は北条綱成の次子である北条氏秀が引き継いでいます。つまり遠山氏の影響力は葛西地域のみに限定されてしまったのです。

 この理由としては、北条氏に対抗する勢力が上杉氏を中心に大きくなっていたことが挙げられます。そのため宿老ではなく、御一家衆の玉縄北条氏が重要防衛拠点である江戸城の守りに据えられたと考えられます。政景に何か落ち度があったわけではなかったようです。

小田原攻めの時期にはもはや影響力を失っていた

 政景は天正8年(1580)に死去し、家督は政景の嫡子である遠山直景が継承しました。

 同時期の天正11年(1583)には江戸城代の北条氏秀が死去。江戸地域は隠居した北条氏政が自ら治めるようになり、直景は江戸衆の筆頭として軍事的な役割を担いました。また、下総千葉氏の指南も務めています。

 直景は官途名の右衛門大夫を代々の遠山氏当主同様に称し、期待されましたが、天正15年(1587)に死去。家督は直景の嫡子である遠山犬千代が継承しました。この時点で幼名ですから、まだ幼かったと考えられます。それでも直景の跡を継いで下総作倉城の在番を務めています。

 天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めの際は、官途名に右衛門大夫を称していたようですが、その活躍振りはおろか動向すらも定かではありません。そのため遠山氏のその後の詳細は不明です。犬千代が他家に仕えるようになったのか、その子孫がどうなったのかまったくわかりません。もしかするとここで遠山氏は断絶した可能性もあります。

 同じように家老の筆頭格だった松田氏は松田憲秀が長命で、北条宗家とも深く関わっていため滅亡時まで重臣だったのに対し、遠山氏は綱景が国府台合戦で亡くなって以降、次々に当主が代わっており、その若年化と共に重要な役割から遠のいていったのでしょう。この点は松田氏と大山氏の大きな違いでもあります。

おわりに

 北条氏初代当主である宗瑞の頃から譜代家臣として仕え、外交面や古河公方への対応を任され、最前線となる江戸城を守った遠山氏でしたが、晩年の衰退はとても残念です。岩付太田氏の裏切りがなければ、遠山氏は影響力を持ち続けることができたかもしれません。

 ただ、それでも北条氏が栄えていたと考えると、北条氏の一門がそれぞれ力をつけ、譜代家臣が衰退しても北条宗家を支えることができるようになったことを物語っているのではないでしょうか。
こうして北条氏滅亡と同時期に遠山氏は歴史から消えていきました。


【主な参考文献】
  • 黒田基樹『戦国北条家一族事典』(戒光祥出版、2018年)
  • 黒田基樹『北条氏康の家臣団』(洋泉社、2018年)
  • 森田善明『北条氏滅亡と秀吉の策謀』(洋泉社、2013年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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