晩年の伊達政宗の姿 ~最期の様子や死因は?
- 2022/07/29
伊達政宗といえば、創作などではどうしても「若武者」として描かれがちな印象があります。その理由は単純で、主役に信長や家康を起用した場合、彼らの活躍した年代と年齢的なズレが発生してしまうからです。
また、政宗が老齢に差し掛かるころには、すでに江戸幕府のもとで各藩が支配されており、戦が起こっていなかったことも原因でしょう。そのため、政宗晩年の姿というものはあまり創作などで取り上げられず、必然的に知名度も一段落ちているように感じます。
そこで、この記事ではそうした政宗晩年の姿に着目し、彼の最期や死因についても詳しく解説していきたいと思います。
また、政宗が老齢に差し掛かるころには、すでに江戸幕府のもとで各藩が支配されており、戦が起こっていなかったことも原因でしょう。そのため、政宗晩年の姿というものはあまり創作などで取り上げられず、必然的に知名度も一段落ちているように感じます。
そこで、この記事ではそうした政宗晩年の姿に着目し、彼の最期や死因についても詳しく解説していきたいと思います。
【目次】
政宗の生涯における「晩年」とは
政宗の生涯を区分するにあたり、「晩年」とはいったいどの時期にあたるのでしょうか。まずは、そこから考えていきましょう。まず、政宗が永禄10年(1567)に生誕してから、天正12年(1584)に家督を相続するまでの期間で一つ目の区分をすることができます。ここに関しては、あまり異論もないのではないかと思います。
次は家督を相続してから、この期間の終わりをどこまでと区分するかが難しい問題になってきます。もちろんさまざまな意見があることとは思いますが、今回の記事では便宜上、慶長20年(1615)の豊臣が滅亡した大坂夏の陣の終結までを二つ目の区分として定義します。その理由としては、この期間は彼の生涯で「いくさ人」として働いている期間に相当するからです。
最後の区分に相当するのが、豊臣滅亡以後から政宗が逝去する寛永13年(1636)までの期間で、この期間こそが政宗の「晩年」といえるのではないかと思います。それでは定義を明らかにしたところで、政宗晩年の活動をみていきましょう。
政宗晩年の活動。仙台藩の安定化に尽力
さて、先ほども触れた晩年の期間には、主に藩内の農政改革や文化財の建築・治水事業などの点で仙台藩の安定化に努めました。これらの事業は今でもその姿を残すものもあり、大崎八幡宮や瑞厳寺などの文化財は国宝に指定されています。また、藩の経営と同時に徳川幕府の重鎮として、家康の死後も大きな影響力をもっていたとされています。しかも、真偽のほどは定かではありませんが、家康の死後2代秀忠への代替わりの際、天下を夢見て謀反を起こそうとしていた可能性があるという指摘もなされています。もちろん、結果的に謀反は起こらなかったのですが、こうした噂が立つこと自体、政宗がただ者ではないと考えられていた動かぬ証拠でしょう。
こうして謀反を起こすかもしれないと考えられるほどの影響力を有していた政宗は、2代秀忠・3代家光の代になっても依然として勢力を維持していました。御家お取り潰しの沙汰を下される大名も少なくなかったにもかかわらず、外様大名の伊達氏がこれほど力を維持していたのは、政宗の力も作用していたでしょう。
とくに有名なエピソードは、家光が参勤交代制を発布した際、進んでそれに従う旨を申し出た逸話でしょう。このエピソードに関して真偽がどれほど正確なのかは問題ですが、これだけでなくさまざまな点で政宗は家光から尊敬のまなざしを向けられていたという事実が浮かび上がってきます。
こうして家光からも信頼を置かれていた政宗は天下取りこそ叶いませんでしたが、かなり充実した晩年を過ごしていたと考えてもよいでしょう。
政宗最期の時 江戸への最期の旅立ち
充実した晩年を送っていた政宗でしたが、寛永13年(1636)に入ると体調を崩すようになりました。死期を悟っていたのか、家臣に対して辞世の和歌を披露するなどの行動を見せており、江戸への出立を予定より早めて仙台を旅立ちます。その旅立ちの前に、政宗が友とした鳥・ホトトギスの声を一聴しようと奔走していた様子が『政宗公御名言集』に確認できます。しかしホトトギスは旅立ちには縁起の悪い鳥とされており、その通り結果的に政宗の江戸への出立は片道限りのものとなりました。教養人であった政宗もこのことは知っていたに違いなく、最期にどのような思いでホトトギスを求めていたのかを考えると、感慨深いものがあります。
こうして江戸へと出立した政宗は、4月下旬に江戸入りします。その後、5月に家光に謁見しますが、その衰弱ぶりをみた家光は、寺社に政宗回復の祈祷をさせるとともに、侍医の半井驢庵を藩邸に派遣して治療にあたらせました。
5月下旬に政宗を見舞った家光ですが、その際にはもう先が長くないことが一目でわかるような状態であったとされています。また、この頃には腹部が大きく膨れ上がっており、現代でいうところの癌性腹膜炎を起こしていたという見解もあります。
5月23日には看病をしていた女房に、「戦場を駆け回っていた私が、畳の上で死ぬとは思っていなかった」と語ると、翌朝の24日早朝に息を引き取ったとされています。
政宗の死因は癌性腹膜炎または食道癌という説が有力
政宗の死因については、先ほども触れた腹部のふくらみという症状から、癌性腹膜炎であったという説があります。癌性腹膜炎の症状には腹部に水がたまるというものがあり、史料の記載と合致する点があります。また、もう一つの死因として、死の数年前から食事が満足にできないようになっていたという症状から、食道癌という説もあります。食道癌の症状には食事不振と嚥下(飲み下すこと)障害があるとされ、これも史料の記載と合致する点があります。
加えて、これらの症状は併発することもあり、どちらの症状もみられることから、両方の病を患っていたという見方もできます。
いずれにしても、死の直前は苦しい日々を送っていたことが推測できます。
政宗の辞世の句
政宗の辞世の句は非常に有名で、和歌としても高い完成度を誇るとされています。曇りなき 心の月を 先たてて 浮世の闇を 照してぞ行くと詠まれた一首は、「先の見えない闇の中で月の光を頼りに進むように、戦国の先の見えない世をひたすらに歩いた一生だった」という意味が込められています。
幼少期には目を患い、政情不安定だった奥州や豊臣・徳川との綱渡り外交を強いられつつも、ひたむきに歩み続けてきた政宗という人物らしい、見事な辞世の句だと感じます。
【主な参考文献】
- 佐藤憲一『素顔の伊達政宗:「筆まめ」戦国大名の生き様』洋泉社、2012年
- 小林千草『伊達政宗、最期の日々』講談社、2010年
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