「三好元長」晴元家臣として功績を挙げるも、関係悪化で主君に討たれる!
- 2020/06/30
三好元長は、戦国初の天下統一を成し遂げた三好長慶の父として知られています。子の長慶は父の死後に若くして三好氏当主となり、父を死に追いやった細川晴元に仕えました。晴元の下で数々の戦功を挙げつつ、長慶はやがて晴元と対立して追放し、三好政権を樹立することになります。
長慶と晴元の対立は、元をたどれば父・元長の代からの因縁によるところが大きく、避けて通ることはできないものだったのかもしれません。本記事ではその因縁が生み出された三好元長の生涯をみていきます。
長慶と晴元の対立は、元をたどれば父・元長の代からの因縁によるところが大きく、避けて通ることはできないものだったのかもしれません。本記事ではその因縁が生み出された三好元長の生涯をみていきます。
三好之長の孫として生まれる
元長は文亀元(1501)年、三好之長の孫として誕生しました。父は之長の嫡男・三好長秀とされます。一方、元長は之長の子であったという説もあり、また父が家督相続前に戦死してしまったため、元長が之長の養子となって家督を相続した、という説もあります。
祖父の之長は三好氏躍進のきっかけをつくった武将です。永正4(1507)年に細川京兆家の細川政元が暗殺され、その後継者をめぐる争い(永正の錯乱、両細川の乱)が勃発。このとき之長は阿波細川家出身の細川澄元を推していました。
一連の戦いの中でまず父長秀が永正6(1509)年に戦死し、祖父の之長も永正17(1520)年に高国に敗れて処刑。さらに、之長の死を受けて阿波へ戻った澄元も失意のままに病死してしまいます。
そうして残された孫の元長は之長の跡を継ぎ、澄元の子・晴元を擁立して打倒高国を目指していくこととなります。
高国派の内乱に乗じて堺に上陸
阿波で高国打倒の機会をうかがっていた元長や晴元に好機が訪れます。大永6(1526)年、高国派の内部で揉め事が起こったのです。高国に重用されていた従兄弟・細川尹賢と、高国の重臣・香西元盛が対立しており、高国は尹賢の讒言を信じて元盛を誅殺してしまいました。
これに怒り反発したのが、元盛の兄・波多野元清と弟・柳本賢治です。ふたりはそれぞれ拠点である丹波の八上城、神尾山(かんのおさん)城に籠城し、三好勢と呼応して戦いました。
先に堺に上陸して元清・賢治と合流したのは三好勝長と政長の兄弟でした。反高国軍は桂川で高国を大敗に追い込み、高国と12代将軍足利義晴を近江へ追いやります。
其後は三好方の太刀におそれて合戦なし
次いで元長も、大永7(1527)年に堺へ上陸。このとき、元長は晴元と足利義維(よしつな)を伴っていました。義維とは11代将軍・義澄の子、12代将軍・義晴の兄弟(兄・弟両説あり)で、元長らが次期将軍に据えようと考えていた人物です。
このころの高国派と晴元派の対立構図は以下のとおりです。
◆ 高国派
- 細川高国
- 足利義晴(12代将軍)
- 細川尹賢
- 武田元光
VS
◆ 晴元派
- 細川晴元
- 足利義維(のちの堺公方)
- 三好元長
- 三好勝長
- 三好政長
- 柳本賢治
- 波多野元清
同年の10月、高国は近江の六角定頼の援助を受けて再び上洛し、戦が勃発します(川勝寺口の戦い/泉乗寺口の戦い)。
当初、大軍の幕府軍(高国軍)が優勢でしたが、堺公方方の軍の賢治、元長が反撃に出ています。元長は朝倉教景(宗滴)を破り、高国方の敗北へ傾き始めます。
これよりのちは、『細川両家記』によれば「其後は三好方の太刀におそれて合戦なし」となったようです。
堺公方政権樹立に貢献するも……
将軍・義晴と高国を近江へ追いやると、次期将軍として擁立された義維は朝廷から従五位下、左馬頭に任じられました。この官位官職は将軍になる前の武家の棟梁が任じられるもので、義維は次期将軍としての地位を確約されたようなものでした。義維は堺公方、または堺大樹と呼ばれ、将軍と同じように文書を発給して政治を行うようになります。しかし、大永から享禄への改元にあたっては朝廷から義晴のほうへは相談があったにもかかわらず、義維のほうには何の相談もなく改元されました。朝廷は義維を正式な将軍とは見なしていなかったようです。
この堺公方政権において、元長は山城守護代に任じられ、茨木長隆を晴元の奉行人に据えるなどして、堺公方政権を支える人物として活躍しました。
柳本賢治との対立
元長と晴元の関係は徐々に悪化していきます。きっかけは大永8(1528)年に元長によって進められていた両細川の和睦交渉でした。六角定頼の仲介によって和睦は進められていましたが、難色を示した柳本賢治・三好政長、そしてふたりに同調した晴元によって和睦は頓挫してしまいます。
元長は晴元と高国を和睦させ細川を統一させようという考えだったのですが、晴元はあくまでも自分が管領になるためには高国を排除しなければならないという立場でした。
和睦に反対する賢治らは晴元に讒言し、元長は同年8月に阿波国へ帰国することになりました。元長が賢治に敗北した形です。
細川高国を滅ぼす
元長が去った堺では賢治が活躍しますが、将軍・義晴を上洛させて晴元と和解させようとして失敗。晴元が承知しなかっただけでなく、仲間と思っていた政長すら反対したのです。この一件で面目を失った賢治は剃髪し、享禄3(1530)年に高国と手を組んでいた浦上村宗(播磨・備前・美作国三国の守護・赤松氏の家臣)によって暗殺されてしまいました。
賢治を亡き者にした高国派は勢いをつけ、元長を欠いた堺公方は高国の圧力に抵抗することが徐々に難しくなります。やがて晴元から助けを求められた元長が要請に従って堺に上陸することになります。
元長は賢治らの讒言によって晴元に放逐されたわけですが、憎い賢治はすでにありません。また、晴元の敵・高国は元長の祖父と父を殺した仇であり、元長にとっても討たねばならない共通の敵でした。
天王寺の戦い(大物崩れ)
元長は阿波守護の細川持隆の援助を受けて舞い戻り、持隆の援軍8000の兵に義維と晴元を守らせると、残りの兵を連れて天王寺で敵軍と対峙しました。この中嶋の戦いはしばらく膠着状態が続きます。高国軍の浦上村宗の後詰に、赤松政村(政祐/晴政)という武将がいました。政村の父は村宗によって殺害されており、このことから政村は密かに堺公方側と通じているのではという噂がありました。結局、高国軍は元長と通じた政村の裏切りにより混乱し、崩れます。
高国は大物城を目指して逃走しますが、その道中の町屋で隠れていたところで捕まり、大物(現在の兵庫県尼崎市)の広徳寺で自害させられました。
この地名から、高国が敗北したこの戦は「大物(だいもつ)崩れ」とも呼ばれます。
主君・晴元との対立
高国を滅ぼした功労者である元長は再び政権の中枢に返り咲きました。山城守護代、河内十七箇所の代官職を得ます。しかし、もともと不和であったものは結局どうしようもないのか、共通の敵である高国が消えたことで堺公方内部は再び分裂してしまいます。晴元の御前衆である可竹軒周聰(かちくけんしゅうそう)・三好政長・木沢長政らが晴元に讒言し、元長と晴元はまた対立し始めたのです。
事ここに至って、晴元は義維を退けて義晴と手を組むことを考え始めます。堺公方を廃して義晴と和睦を進めようとする晴元に、元長や晴元義兄の畠山義堯(よしたか)は反対の意を唱えますが、これによって両者の関係はさらに悪化してしまいます。
木沢長政をめぐって
木沢長政という人物は、もともと河内、山城国の守護・畠山氏の被官で、その後高国の被官となります。時流を読んでコロコロと主君を替える長政は晴元に近づいて側近となりました。この長政の動きに、元長や義堯は危機感を持ちました。元長は堺公方・義維や義堯との関係を強めて連携します。義堯が長政の飯盛山城を攻めた際、元長の一族である三好勝宗が助力しました。一方、晴元は長政に助けを求められて出兵。義堯は晴元の姉婿にあたるにもかかわらず、援軍を送っているのです。
柳本甚次郎を討ったことでさらに晴元の怒りを買う
享禄5(1532)年、元長はかつて自身を排除した柳本賢治の子・柳本甚次郎を攻め、自害に追い込みました。これはかつて賢治が元長党の伊丹弥三郎を討ち、伊丹元扶を亡ぼしたことへの復讐でしたが、晴元の怒りを買ってしまいました。主君のあずかり知らないところで家臣同士が争ったことで晴元の怒りはなかなかおさまりません。
元長は細川持隆の勧めで剃髪して「開運(海雲)」と号して謹慎しますがあまり意味はなく、ふたりの仲を取り持とうとした持隆も結局晴元と義絶し、阿波へ帰国することになりました。もはや元長と晴元の関係は修復不可能なところまできてしまうのです。
なお、この時期の内部対立の構図は以下のとおりです。
◆ 元長派
- 三好元長
- 足利義維(堺公方)
- 細川持隆
- 波多野秀忠
- 三好一秀
VS
◆ 晴元派
- 細川晴元
- 木沢長政
- 三好政長
- 茨木長隆
一向一揆に追い詰められ自害
享禄5(1532)年5月、義堯が再び飯森山城を攻めると、長政はまた晴元に援軍を要請しました。しかし畠山・三好連合軍には丹波の波多野秀忠や大和国衆も味方しており、晴元の軍だけでは太刀打ちできず、ギリギリのところまで追い詰められてしまいます。この危機を打開すべく晴元らが助力を要請したのが、本願寺でした。一向一揆の力を使って義堯と元長を破ろうと考えたのです。
これによりまずは義堯が敗れて自害に追い込まれます。続いてさらに兵力を増した一向一揆が目指したのが元長です。このときの一向一揆勢力は10万ともいわれ、法華宗の顕本寺に逃れた元長は周囲を取り囲まれ、自害しました。
このとき義維も顕本寺におり、自身も自害するつもりでいましたが、晴元勢に止められて生き残りました。
本願寺に頼んで一向一揆を動かした晴元らは、一向宗と法華宗の対立を利用したのでした。元長は法華宗の大檀那であり、一向宗にとっては対立する法華宗の庇護者を排除するいい機会だったのです。
元長は一向一揆が迫る前に、妻と嫡男の千熊丸(のちの長慶)を阿波へ帰しています。この翌年、一向一揆が独自に暴れ出して収拾がつかず困り果てた晴元が幼い千熊丸の仲介によって助けられることになるのですが、なんという因果な話でしょうか。
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【参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 今谷明・天野忠幸 監修『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(宮帯出版社、2013年)
- 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
- 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』(洋泉社、2007年)
- 長江正一 著 日本歴史学会 編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)
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