織田信長に仕えた黒人「弥助」を史料から読み解く!

織田信長の家臣には数多くの著名な人物が存在します。明智光秀や豊臣秀吉など、日本史に名を残す人物が信長の天下統一に多大なる貢献をしていました。信長家臣のバラエティあふれる顔ぶれには、やはり信長の人材登用術が大きく関係していると考えられます。

そんな多様な顔ぶれの信長家臣団において、ひときわ異彩を放っていたのが「弥助」です。驚くべきことに彼は「黒人」であったと伝わっており、そのインパクトから知る人ぞ知る信長の家臣として認知されてきました。

しかし、近年になると「戦国期のグローバリズム」がにわかに注目されるようになり、弥助の存在がクローズアップされます。弥助を主人公としたハリウッド映画の公開が予定されているほか、外国語で執筆された弥助の学術論文も確認できました。

とはいえ、弥助に関する史料は非常に少なく、彼の存在については『信長公記』やキリシタン文書でわずかに登場するのみで、その生涯は大半が謎に包まれています。この記事では史料をもとに弥助の実像を探り、近年脚光を浴びる彼の国際的評価についても記述していきます。

弥助の生涯とその実像

弥助に関する史料は非常に少なく、その存在については『信長公記』やキリシタン文書でわずかに登場するのみで、その生涯は大半が謎に包まれています。

最初に史料で確認できるのは、本能寺の変が勃発する三年ほど前です。イエズス会の宣教師ヴァリニャーノらとともに弥助は日本の地を訪れました。

『南蛮屏風』の一部。
ポルトガル人来航の様子や風俗を描いた『南蛮屏風』の一部。南蛮人たちの中に黒人の姿も確認できる。

日本で弥助に与えられた役割は宣教師らの護衛であったと推測されており、彼は宣教の旅に付き従う形で九州に点在したキリシタン大名の領地を訪問していたようです。

その後、ヴァリニャーノは自身の帰国に際して、時の権力者である織田信長に拝謁するために京都を訪れます。
弥助のような黒人を見かけたことがなかった民の間ではたちまち評判となり、京都では見物人が殺到し、やがて暴徒化してしまったとさえ伝わっています。

信長との面会を経て家臣となった

この騒ぎはたちまち信長の知るところとなり、彼は騒動の渦中にいた弥助との面会を要求します。

面会は京都の本能寺で実施され、信長とかねてから付き合いのあった宣教師オルガンティーノが弥助と信長の仲介人として同行しました。信長は弥助の姿を眺めると、その異彩を放っていた容貌にたいそう興味を示したと伝わっています。

信長は「肌の黒さは人為的に仕組まれたものではないか」と考え、弥助に上半身をさらけ出すことを命じ、彼の肌をさまざまな手段で見分しました。

信長は弥助の肌を引っ張る・こするなどの手段で肌の色を落とそうとしましたが、彼の肌には全く変化が生じなかったとされています。

さらに、弥助の体を洗うことで色が落ちるとして水浴びを命じましたが、彼の身体は色を失うどころかますます黒光りするようになりました。信長はこの光景にたいそう驚き、同時に弥助の肌が人為的に着色されたものではないことを認めたと伝わっています。

そして、ヴァリニャーノが改めて信長と面会した際に信長に対する献上品として弥助を差し出したところ、彼は喜んで献上に応じたとされます。

こうして、弥助は世にも珍しい「黒人の小姓」として信長に仕えることになったのです。

小姓として信長に仕えた弥助は、他の家臣同様に正式な「武士」としての扱いを受けることになりました。一説では私邸と従者、さらには刀をも与えられていたと伝わっています。

当初は物珍しさから信長に見出された弥助でしたが、待遇の面から考えて能力そのものが次第に評価されるようになっていった、という意見も存在します。

本能寺の変を生き延びるも、歴史の表舞台からは姿を消した…

しかし、弥助の家臣生活が長く続くことはありませんでした。

天正10年(1582)6月21日、弥助だけでなく日本史の転換点にもなった本能寺の変が勃発します。弥助は変に際しても臆することなく奮戦しますが、主君信長は命を落とし彼自身も明智軍に捕縛されてしまいました。

光秀は弥助の処分を検討しましたが、「黒人は武士ではないので南蛮寺(現在の教会)へ護送せよ」と命じ、弥助は一命をとりとめます。

この後、弥助がどのような生涯を送ったのかということについては史料に一切の記載がありません。彼の生涯は記録上はここで途絶えることになります。弥助の「消失」後も黒人の存在を仄めかす史料はいくつか散見されますが、当然ながらそれを弥助と断定することはできません。

弥助が海外を中心に注目された背景と理由

さて、ここまで弥助の生涯とその実像を整理してきました。

彼の生涯を紐解いて得られる単純な感想は「判明していることや歴史に登場する期間があまりにも短い」ということではないでしょうか。実際、歴史上に弥助が登場する期間はわずか3年足らずであり、その素性も大部分が謎に包まれています。

しかし、こうした事情があるにもかかわらず、近年では海外を中心に注目を集めており、研究者の間でも弥助の再評価が進められています。

日本アニメ・漫画のブーム

どうして弥助の存在が見直されるようになったのでしょうか。

もともと、日本の歴史好きにとって弥助の存在はそれなりに浸透していました。やはり「戦国時代に黒人の武士がいた」という事実はインパクトが大きく、また弥助が戦国屈指の人気武将である織田信長の家臣であったということもその要因の一つでしょう。そのため、歴史学の研究ではそれほど存在が顧みられることはなかったものの、信長を扱った創作においては弥助が頻繁に登場していました。

そして、21世紀に突入すると世界ではグローバリズムが加速し、自国にいながら海外の作品を気軽に楽しめるようになります。その影響を受けて日本のアニメや漫画などの創作物が海外でちょっとしたブームとなり、創作に登場する弥助という人物の存在がしだいに認知されていくようになりました。

日本の象徴である「侍」の中に異国人がいたという事実は、海外の人々には当の日本人以上に大きなインパクトを与えたのでしょう。弥助の存在はしだいに注目を集めるようになり、「ブラック・サムライ」として知名度を大きく向上させたのです。

再評価には「21世紀の人権意識」が大きく関係

アニメ・漫画ブームによって海外での知名度を獲得した弥助。しかし、彼に注目が集まった理由はそれだけではないでしょう。個人的には、弥助がブラックのルーツを持つという事実も大きく関与しているもの、とみています。

実際、近年の社会的潮流として「人種差別と闘う」という思想が優位に立っています。そのため、とくに欧米の先進国では人種差別が厳しく指摘され、差別的思想を糾弾するような発言や創作も多数確認できます。

こうした風潮は社会の中流階級以上にしばしば確認でき、映画界のトップと目されているハリウッドなどでは公開される映画も人種問題を取り扱ったものが非常に多くなっているという現状があります。

冒頭でも言及しましたが、弥助を主役に配した映画『ブラック・サムライ』というハリウッド映画の公開が内定しています。これは、明らかに近年のハリウッドにおける流行を反映した作品であるといえるでしょう。

ハリウッドで人種問題を扱った映画が増えている背景には、「人種問題に言及しない映画はオスカーを取りづらい」という暗黙の了解があります。実際、近年のアカデミー作品賞受賞作は大半が人種問題を扱った作品です。
こうした事情は、映画界だけでなく弥助という日本史に登場する人物への評価にも影響していると考えるのが妥当でしょう。

歴史学会でも弥助が評価され始めた理由

ここまでの内容から、一般社会レベルで弥助が再評価されている理由についてはお分かりいただけたと思います。しかし、弥助の存在はなにも一般社会だけで注目されているわけではありません。弥助をテーマにした学術論文や研究書は増加の一途を辿っており、これは弥助が歴史学会でも研究の対象として注目されていることを示しています。

そこで、ここからは学会でも注目を集めることになった要因を、一般社会での流行以外の点から考えていきます。

史料を忠実に追う歴史学以外の手法も評価されるようになった

日本では明治時代に西洋から「実証主義歴史学(史料を忠実に分析し、史料を絶対的なものとして扱う)」が輸入されて以降、近年に至るまで歴史学会のコアな手法として君臨していました。そのため、戦国ファンが好む「逸話」や「伝説」の類は「偽の歴史」として扱われ、あまり真剣に検討されることはありませんでした。

しかし、近年になって「史料絶対主義」はいくらか後退し、オーラルヒストリー(口頭での伝承)や「偽の歴史」がなぜ定着したのか、という点が学問の対象としてみなされるようになりました。

こうした風潮が一般化したため、かつては弥助のように「色物」として真剣に研究されてこなかった対象にもスポットライトが当たるようになったと考えられます。

「戦国キリシタン史」が注目を集めるようになった

これまで、戦国時代の研究は「武将」や「政治」などの対象が中心的な研究テーマとして考えられ、あくまでそれらをベースとした学問の傍流に文化史やキリシタン史が位置付けられていました。

しかし、近年になって「戦国時代は国際色豊かな時代だった」という点が注目されるようになり、その部分に大きく貢献していた宣教師やキリシタン大名の存在が見直されています。

そして、今回紹介した弥助も「戦国キリシタン史」に位置付けられる人物です。したがって、戦国時代という時代を研究する際に注目される論点が時代とともに変化してきたことで、弥助は学会でも脚光を浴びるようになったといえるでしょう。


【主な参考文献】
  • 岡田正人『織田信長総合事典』(雄山閣出版、1999年)
  • ロックリー・トーマス(不二淑子訳)『信長と弥助:本能寺を生き延びた黒人侍』(太田出版、2017年)

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  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

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