明智光秀は人質となった母親を見殺しにされたから、織田信長を討ったのか

「八上の城兵、光秀の老母を斬罪にする図」(『絵本太閤記』より。出典:wikipedia)
「八上の城兵、光秀の老母を斬罪にする図」(『絵本太閤記』より。出典:wikipedia)

本能寺の変、怨恨説

 天正10年(1582)6月2日、明智光秀は突如として京都に乱入し、本能寺にいた織田信長を襲撃した。結果、信長は自害して果て、光秀は本懐を遂げた。光秀が信長を討った理由については、諸説ある。中でも怨恨説(光秀が信長に恨みを持っていた)は、長らく有力視されてきた。

 その一つが八上城(兵庫県丹波篠山市)の落城後、光秀は人質となった母親を見殺しにされたので、本能寺で信長を討ったというものである。まず、通説を確認しておこう。

 天正3年(1575)以降、光秀は信長から丹波を計略するよう命じられ、その3年後から八上城を本格的に攻撃した。3年もの間隔が開いたのは、光秀は信長から何度も大坂本願寺攻めなどを命じられ、丹波計略に注力できなかったからだ。

 光秀は兵糧攻めをするため、八上城の周囲に付城を築いた。結局、本格的な戦いは約1年3ヵ月続いたが、八上城に籠城した波多野秀治ら三兄弟は開城し、戦いは終わったのである。『信長公記』には、秀治ら三兄弟が天正7年(1579)6月2日に安土城(滋賀県近江八幡市)下の浄巌院慈恩寺で磔刑にされたと記す。これが通説である。

処刑された波多野三兄弟と『総見記』の記述

 次に、八上城の落城後、光秀が信長に恨みを抱くことになった、有名な逸話を取り上げる。そのエピソードは、『総見記』に書かれているので、次に確認しておこう。

 八上城の攻防は終盤に差し掛かったが、光秀は波多野氏に苦戦していた。苦戦だけならいいのだが、あまりに攻略に時間が掛かるので、信長は立腹していたという。このままでは、光秀の立場が危うくなってしまう。光秀は焦っていた。

 そこで、光秀は愛宕山大善寺(京都市右京区)らを介して、波多野氏に和睦の交渉を行った。その内容とは、信長は波多野氏に対して遺恨がなく、天下統一を目指しているので、波多野氏が降参すれば家の存続を保証し、丹波一国を安堵するというものだ。負けそうな波多野氏からすれば、願ってもない好条件である。

 それだけではない。むろん、信長は起請文を交わし、その内容を保証するとまで申し出た。ところが波多野氏は信長の対応に強い疑念を抱き、和睦を拒否したのである。これでは、さすがの光秀もお手上げである。

 そこで、考え抜いた光秀は、自分の母を八上城に人質として送り込み、秀治ら三兄弟の命を助けることを条件として、八上城を開城させることに成功した。同年5月28日に両者は和睦を結び、光秀は八上城に母親を送った。しかし、ここから悲劇が起こったのだ。

 同年6月2日、秀治らが招きに応じて光秀の城を訪れると、光秀は配下の者に命じて、突如として秀治らを捕縛した。そして、秀治らを捕らえた旨を信長に報告し、安土城に連行することにした。光秀は、当初の約束を破ったのである。

 秀治は連行される途中で怪我が原因で亡くなり、弟の秀尚は安土城で処刑された。八上城の波多野氏家臣は秀治らが死んだことを知ると、光秀の母を直ちに磔にして、報復したのである。なお、八上城跡には、光秀の母が磔にされた松が残っている。

 『総見記』はこの続きに、少しばかり矛盾したことを記す。同年6月4日、光秀は捕らえた波多野三兄弟を安土城に連れて行くと、城下の浄巌院慈恩寺で磔にしたと記している。先述したとおり、秀治は安土城に連れて行かれる途中で死んだと記しているので、内容に錯誤があるのは明白である。

史実としては認めがたい話

 以上の話は、『総見記』に書かれたものであるが、ほかの史料を参考にしてみると、矛盾だらけといわざるを得ない。以下、その点を確認してみよう。

 『信長公記』によると、光秀が兵糧攻めを敢行したので、八上城に籠っていた将兵は空腹で疲れ切っていたと記す。将兵は飢えに耐えかねて、草葉を口にする始末だった。つまり、八上城の攻防は、光秀が戦いを有利に進めていたのである。

 光秀が戦いを有利に進めていたことは、光秀の書状(「下条文書」、「小畠文書」)にも記されており、八上城の落城は時間の問題だった。したがって、光秀は終始優勢だったのだから、わざわざ波多野氏に和睦を持ち掛ける必要はない。ましてや、自分の母を人質として、波多野氏に預ける必要はないのである。

 しかも、この話をよく読むと、約束を破って波多野三兄弟を捕らえ、信長のもとに送ったのは光秀自身である。そもそも約束を破った光秀が悪いのだから、信長に責任を押し付けるのは筋違いの話である。

問題がある『総見記』の史料性

 遠山信春の著作『総見記』(『織田軍記』)は、本能寺の変から100年ほど経過した貞享2年(1685)頃に成立したという。記述内容は、小瀬甫庵の『信長記』をもとに執筆されており、多くの箇所で独自の創作や脚色が施された。

 そもそも信春が参考にした甫庵の『信長記』は間違いが多いとされ、歴史史料としての価値はないと評価されている。『総見記』は、史料的に価値がない甫庵の『信長記』を土台にしているのだから、とうてい信が置けないのである。

 つまり、信長が約束を違えて波多野三兄弟を処刑し、報復措置として光秀の母が磔にされたというのは根拠がなく、ましてや光秀が信長を恨むなどありえない。『総見記』の記述は虚偽であり、史実としては認められないのである

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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