家康を監視?「唐沢山城」江戸の大火を遠望、「平城へ移れ」と廃城に
- 2023/07/07
安土桃山時代の高石垣跡が残る唐沢山城(栃木県佐野市)は上杉謙信も落とせなかった堅固な山城でした。山頂からは80キロほど離れた東京都心部まで見渡せます。
徳川家康の時代も江戸の大火を遠望した城主・佐野信吉が江戸に急行。家康への忠誠心を示そうとしました。ところが、家康は予想外の反応を示し、この件をきっかけに唐沢山城は廃城、城は平地に移転させられます。何があったのでしょうか。
徳川家康の時代も江戸の大火を遠望した城主・佐野信吉が江戸に急行。家康への忠誠心を示そうとしました。ところが、家康は予想外の反応を示し、この件をきっかけに唐沢山城は廃城、城は平地に移転させられます。何があったのでしょうか。
謙信退けた堅固な山城 下野・佐野氏居城
唐沢山城は下野・佐野を治めていた国人領主(国衆)・佐野氏の居城です。標高242メートルの唐沢山に築かれた関東七名城の一つです。本丸、二の丸などの建物は残っていませんが、江戸時代以前の高石垣が現存する東日本では貴重な例です。また、敵の侵入に備え、かぎ型の進路となっている食い違い虎口もあり、見どころの多い城跡です。秀郷築城伝説はあるが…
佐野氏は平将門の乱を鎮圧した名将・藤原秀郷の子孫です。しかも唐沢山城は秀郷が築城した伝説があります。しかし、本格的な築城は15世紀中期とみられます。古い時代も砦や見張り小屋程度の機能があった可能性は残りますが、本拠地として機能するのはやはり戦国時代からでしょう。謙信越山 しぶとい佐野昌綱
唐沢山城を執拗に攻めたのが上杉謙信です。永禄2年(1559)、北条氏政が3万5000の兵で押し寄せ、城主・佐野昌綱救出に駆け付けた謙信(長尾景虎)が45騎の手勢で北条勢の大軍の中を押し通ったという名場面が伝わっています。しかし、これは『関八州古戦録』のフィクションです。謙信の唐沢山城攻めは8回とか、10回以上とか諸説ありますが、史料的に確実なのは永禄5年(1562)2月から永禄13年(1570)1月の5回です。
唐沢山城主・佐野昌綱は上杉謙信と同年代。激しい攻防の末、ついに降伏して、人質をやり取りし、謙信の家臣が唐沢山城を管理したこともありますが、謙信が越後に帰還すると離反するしたたかさもみせます。
それでも「謙信越山」のたびに唐沢山城は攻められます。山の南側は東山道が通り、関東平野が開けているので交通の要所でもあり、謙信も戦略上の拠点と重視したようです。
ただ、北条氏の関東侵攻も進み、佐野昌綱は上杉、北条の両勢力の狭間で苦労しながらも、しぶとく独立を保ちます。
北条氏による佐野氏乗っ取り
しかし、佐野氏は天正14年(1586)ごろ、北条氏に屈します。佐野昌綱の跡を継いだ嫡男・宗綱が若くして戦死。北条氏康の六男・氏忠を養子に迎えざるを得なくなりました。北条氏による佐野氏乗っ取りです。天正18年(1590)の北条氏滅亡後は、佐野昌綱の弟・天徳寺宝衍(ほうえん)が還俗して佐野房綱と名乗り、2年間だけ城主に収まります。天正20年(1592)に隠居し、豊臣秀吉の側近・富田一白(知信)の五男を養子に迎えます。唐沢山城の最後の城主となる佐野信吉です。
江戸の大火、駆け付けた城主に家康は?
佐野信吉は豊臣恩顧の大名です。養父・天徳寺宝衍(佐野房綱)も実父・富田一白も秀吉側近。両者は秀吉の指示を伝達する取り次ぎやお伽衆を務める身近な存在でした。しかし、慶長3年(1598)、秀吉死去で大きな後ろ盾を失った佐野信吉は、最有力大名・家康への接近を図っていきます。小山評定前に陣小屋など整備
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、佐野信吉の兄・富田信高は東軍に属します。伊勢・安濃津城(三重県津市)での籠城戦が関ヶ原の戦いの前哨戦。西軍3万の兵に包囲され、孤立無援のなか、手勢1500の兵で奮戦しました。敗れましたが、家康に奮闘を認められ、関ヶ原の戦い後は加増されます。このころ、佐野信吉も家康の指示で動いています。関ヶ原の戦いに先立つ小山評定では、祇園城(栃木県小山市)の御殿や周辺の陣小屋100カ所以上を造営。これは作戦会議の会場、東軍諸将の宿泊施設の整備です。負担の大きい役割をこなし、家康の行動を支えました。
「山城を降りろ」家康は廃城を命令
佐野信吉の忠誠心が裏目に出たのが江戸大火遠望伝説です。江戸・茅場町で大火があり、佐野信吉がすぐに江戸に駆け付けます。家康:「随分早かったな」
信吉:「城から遠望して江戸の様子を知り、馬を飛ばして駆け付けました」
家康:「しからば、貴殿の城は山城なのか」
家康は、「いざ鎌倉」の精神で駆けつけた佐野信吉の忠誠心を喜ばず、むしろ、山城から見下ろされていると、不快感を示しました。その年の年末、江戸から25里(約100キロ)四方は「山城無用」のお達しが出て、唐沢山城は廃城。佐野信吉は平地の佐野城(別名・春日岡城)に移転します。
この逸話は、地元の史料『佐野領御舘野林清水御城内』に慶長4年(1599)のこととして書かれています。『徳川実紀』などにも似た話があり、慶長19年(1614)のことになっています。
太平の世には不要 平城への移転命令
この江戸大火遠望伝説は史料によって時期も違い、つまり、よくできた作り話。ですが、江戸時代から広く信じられていたようです。地元史料『永島文書』によると、佐野城は慶長5年(1600)2月工事開始、慶長7年(1602)8月完成。別の史料でも、徳川秀忠が関ヶ原に向かう際、城が工事中だったので近辺の大庵寺に宿泊したとされます。慶長7年工事開始、慶長12年(1607)移転という説もありますが、慶長5年時点で城の工事は始まっていたようです。
秀吉の狙いは監視 家康は煙たく
佐野信吉が唐沢山城主となったのは秀吉の天下統一後ですが、本丸などの高石垣はそのころに整備されたとみられ、当時の最先端技術が取り入れられています。秀吉は佐野信吉に家康の監視を期待したのです。この秀吉の意図を家康も見抜き、目障りに思っていたのかもしれません。築城工事は大忙し 「八朔人形」の伝説
佐野城の跡地、城山公園は市街地にあり、JR・東武線の佐野駅北口と直結しています。城周辺には地元の有力寺院が移転し、現在の市街地の基礎となりました。戦国から太平の世への変わり目に山城から平城への移転はごく自然な流れで、街づくりにもつながりました。この築城工事は人々の大きな負担になったようです。「八朔(はっさく)人形」の伝承がそれを伝えています。
築城工事が忙しく、人々は上巳の節句(3月3日)も端午の節句(5月5日)も祝えず、8月1日にまとめて祝います。その名残で、この地では旧暦8月1日、男児にキッコウマ(騎乗武者)、女児に京女郎の人形を贈る風習が戦前まで続いていました。
おわりに
佐野信吉は慶長19年(1614)年、改易となり、移転した佐野城は10年あまりで廃城となりました。佐野は彦根藩の所領(飛び地)となり、唐沢山は江戸時代を通じて立ち入りが制限されます。城跡の保存状態が良く、高石垣が残ったことにも関係しているかもしれません。唐沢山城跡は現在、国指定史跡。本丸跡には祖先・藤原秀郷を祀る唐沢山神社が明治時代初期に建立されました。現在でも城跡からは空気が澄んでいる日は東京スカイツリーや高層ビル群を一望できます。そして、佐野信吉の江戸大火遠望伝説も、なるほどと頷けます。こうした伝説を作りたくなる人はいたはずだと。
【主な参考文献】
- 出居博『武士たちの夢の跡 戦国唐沢山城』(佐野ロータリークラブ)
- 佐野市史編さん委員会編『佐野市史』(栃木県佐野市)
- 『田沼町史』(栃木県田沼町=現佐野市)
- 産経新聞社宇都宮支局編『小山評定の群像 関ヶ原を戦った武将たち』(随想舎)
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