「北条氏綱」初代早雲の跡を継ぎ、小田原城を拠点に初めて北条氏を称した2代目
- 2019/11/27
今川氏の外戚として伊豆国、相模国を支配するまでの勢力を一代で築いた北条早雲(早雲庵宗瑞)の跡を継ぎ、さらに版図を拡大させることに成功したのが2代目当主である北条氏綱(ほうじょう うじつな)です。実は伊勢氏から北条氏へ改姓したのも氏綱なのです。
はたしていかにして氏綱は関東に進出していったのでしょうか。今回は早雲に匹敵する英雄、北条氏綱の活躍ぶりをお伝えしていきます。
はたしていかにして氏綱は関東に進出していったのでしょうか。今回は早雲に匹敵する英雄、北条氏綱の活躍ぶりをお伝えしていきます。
家督の相続と新たな領国支配
家督相続と有力寺社の造営事業
氏綱は長享元年(1487)、早雲と正室・小笠原政清の娘との間に生れました。仮名は早雲と同じ新九郎を名乗っています。元服は文亀年間(1501~04)ごろで、今川氏当主の今川氏親から氏の偏諱を賜ったと考えられます。母親は永正3年(1506)に亡くなっています。
永正15年(1518)、早雲は伊勢氏の家督を氏綱に譲って隠居、翌年には亡くなっていますが、その前に創出した虎の印判がその後の印判状に用いられました。この印判状によって氏綱は郡代や代官による不正な公事賦課を防いでいます。
禄寿応穏の印文のない文章には例え郡代の命令であっても従わなくてもよいと定めたのです。こうして氏綱は直接農村支配を行う領国経営を始めていきました。
家督を相続した氏綱はさらに早雲がなし得なかった領国内の造営事業に着手し、大永2年(1522)から寒川神社宝殿、箱根権現宝殿、六所明神、伊豆山権現、伊豆国の三島神社の再建を行って信頼を得つつ、相模国の支配者であることをアピールしています。
伊勢氏から北条氏への改姓
伊勢氏の本拠地はこれまで伊豆国の韮山城でしたが、氏綱は相模国の小田原城に本拠地を移しています。そして小田原城は豊臣秀吉の小田原攻めまで北条氏の拠点であり続けました。大永3年(1523)に氏綱は伊勢氏から北条氏に改姓しています。これは伊勢氏が関東では未だに他国の逆徒と呼ばれて認められていなかったことが大きな要因だったようです。相模国の正当な守護は扇谷上杉氏であり、関東の副将軍の扇谷上杉氏に家格で対抗するには、鎌倉期の副将軍である北条氏を名乗る必要があったのです。
そのため小田原北条氏は後北条氏とも呼ばれています。その効果もあってか、氏綱は武蔵国や相模国の国衆をどんどん服従させていきました。
扇谷上杉氏との対立
扇谷上杉朝興の反撃
こうなると武蔵国江戸城に本拠地を持つ扇谷上杉氏との全面衝突は避けられない状態です。扇谷上杉氏当主の上杉朝興は大永4年(1524)にこれまで対立していた山内上杉氏と和睦を結び、さらに甲斐国の武田信虎とも協力して北条氏包囲網を形成しました。しかしこの和睦締結のため武蔵国河越城に出向いていた朝興の隙を突いて、氏綱は江戸城を守る太田資高を調略によって内応させ、なんと江戸城を奪ってしまったのです。その後、江戸城は北条勢の武蔵国北部や下総国への侵攻の拠点として活躍していきます。
ただし朝興も反撃に転じ、氏綱に奪われた岩付城、毛呂城の奪還に成功。さらに北条方だった真里谷武田氏や小弓公方、越後国の長尾氏を味方につけ、江戸城奪還を狙いました。
大永6年(1526)には氏綱は蕨城を奪還され、相模国の支城である玉縄城まで侵攻を許してしまいます。さらに安房里見氏も反北条氏に動き、鎌倉まで進出しています。
河越城の攻略
かなり厳しい局面に追い込まれた氏綱でしたが、突破口は里見氏や真里武田氏の内訌でした。里見氏は氏綱が味方した庶家の里見義堯が当主を滅ぼしたことで北条方の勢力となり、真里武田氏は氏綱が味方した側が敗北したものの、これらの内乱で扇谷上杉氏は確実に力を失っていきます。小弓公方の足利義明が扇谷上杉氏に援軍を送り、北条勢を破る成果を出すものの、天文6年(1537)に当主の朝興が死去。上杉朝定が家督を継ぎましたが、その隙に氏綱は河越城を攻略します。
さらに翌年に河越城奪還のために進軍してきた山内上杉勢と扇谷上杉勢の迎撃に成功し、下総国の葛西城を攻略して扇谷上杉氏を追い詰めました。この時点で扇谷上杉氏の拠点はわずかに松山城と岩付城のみとなったのです。
敵方が内側から崩れていくのをチャンスとして勢いよく挽回していく氏綱でしたが、ちょうどこの時期に思わぬ敵が登場します。それは主家であり、駿河国と遠江国を支配する今川氏でした。
氏綱はまさに四面楚歌の状況に陥ります。なぜ氏綱はこのタイミングで隣国の今川氏と対立することになったのでしょうか?
主家である今川氏との対立
花倉の乱の際の氏綱の立ち位置は謎
天文5年(1536)2月、今川氏の当主である今川氏輝が1ヶ月ほど小田原城に滞在しています。さぞかし氏綱との交流を深めたことでしょう。今川氏と北条氏の関係は近隣諸国の中で最も安定していたはずです。しかし、この後、思わぬ事態が起こります。駿府に戻った氏輝は3月に急死してしまうのです。もともと身体が弱かったとも伝わっていますが、死因は不明です。しかも、そうなった場合に備えていた氏輝の弟、彦五郎も同日に亡くなったと記録されています。駿府で何が起こったのか詳細は謎です。
今川氏では家督争いが勃発します。花倉の乱です。四男で志太郡遍照寺に入っていた玄広恵探と五男で富士郡善得寺に入っていた梅岳承芳(のちの今川義元)が、家中を二分して争いました。
氏綱は義元を支持して玄広恵探を攻めたという説と、玄広恵探を支持していたという説があります。義元側に甲斐国の武田信虎が味方していたことは間違いないでしょう。玄広恵探を滅ぼし、家督を継いだ義元はこれまでの外交方針を一転し、敵対関係にあった武田氏と姻戚関係を結びます。
これは北条氏の勢力が強くなりすぎ、義元が北条氏に政治介入されることを警戒したためとも考えられます。
もっとくわしく
こうなると北条氏は完全に周囲を敵に囲まれた四面楚歌の状態です。だからといって手をこまねいているわけにはいかない氏綱は、駿河国駿東郡の葛山氏広(氏綱の弟)、そして遠江国の堀越氏、井伊氏、三河国の戸田氏、奥平氏を味方につけ、今川氏の領地に侵攻しました。
河東の乱で東駿河を制圧
氏綱は富士川以東の地(河東の地)をどんどん制圧していきます。今川氏としても、遠江国でも反乱が起きているので東西から挟撃されている形です。しかも花倉の乱で家中も乱れており、家督を継いだばかりの義元にとっても危機的な状況でした。こうして河東の地をめぐる北条氏と今川氏の戦いはおよそ10年に渡って続けられるのです。これが河東の乱です。
氏綱は富士川河口東岸の吉原を自ら出陣して占領し、この吉原城を前線拠点としています。その後、氏綱が当主の座についている期間、北条氏と今川氏が和睦することはありませんでした。
氏綱にとって甲駿同盟の成立は北条氏への裏切り行為であり、許しがたいことだったのでしょう。氏綱は西で今川氏、武田氏と対峙し、東では山内上杉氏、扇谷上杉氏と対峙するという戦いの日々を過ごすのです。
関東管領に補任され、足利御一門に加えられる
古河公方と小弓公方の抗争
そんな中で、関東では古河公方の足利晴氏と小弓公方の足利義明との対立が激化していました。義明は天文7年(1538)、下総国西部の国府台に着陣します。※参考:歴代の古河公方
- 初代 足利成氏
- 2代 政氏
- 3代 高基
- 4代 晴氏
- 5代 義氏
ちょうど氏綱が下総国の葛西城を攻略しているタイミングであり、扇谷上杉氏への援軍で出陣したものと考えられます。これは同時に下総国関宿城を本拠地にする晴氏への圧力にもなっていました。義明はここに在陣し続けます。
氏綱の支援によって当主となった里見義堯でしたが、彼は氏綱を見限って小弓公方の義明に加担すべく、兵を率いて国府台城に入っています。
氏綱は義明に晴氏との和睦を提案していますが、これはおそらく晴氏の意向でしょう。義明はこの提案を拒否し、先陣を相模台へと北上させます。関宿城を攻めようとする動きです。
脅威を感じた晴氏は、義明を討つように氏綱に指示しました。上意を受けた氏綱は小田原城を出陣して江戸城に入り、さらに義明本陣が国府台から動き出すと江戸城を出陣して国府台と相模台の間にあたる松戸台に布陣しました。
こうして両陣営が激突する第一次国府台の戦いが幕を開けます。
関東管領、足利御一門となる
氏綱はこの戦いで義明勢を撃退するだけではなく、義明の弟の足利基頼、嫡子の足利基純を討ち取った他、なんと総大将の義明も討つという大勝利をあげました。この功績により、氏綱は晴氏の御内書によって関東管領に補任されています。異例の事態ですが、この時期にはもはや室町幕府の許可なく鎌倉府の意向で補任できたということです。関東管領は山内上杉氏が世襲してきていましたから、北条氏綱と上杉憲政というふたりの関東管領が同時期に存在していたわけです。
事実上、関東足利氏の正嫡となった晴氏にとって氏綱の権勢は必要不可欠でした。そのため氏綱の娘(芳春院殿)を晴氏は正室に迎えたのです。こうして古河公方の外戚となった北条氏は足利御一門の家格を得ます。
当時、関東足利御一門は山内上杉氏、渋川氏、吉良氏、新田岩松氏に限られていましたが、ここに北条氏も加わり、氏綱は関東足利公方に次ぐ地位に就きました。名実ともに北条氏は関東を代表する戦国大名となったわけです。
おわりに
早雲の代で伊勢国、相模国を支配するまでの勢力となり、次の氏綱の代にはさらに勢力を拡大し、駿河国半国、武蔵国半国、下総国の一部まで支配しています。しかも氏綱は四方を敵に囲まれる状況の中で、関東管領の補任を受け、足利御一門にまで家格を高めているのです。この活躍ぶりは早雲に匹敵するといっても過言ではないでしょう。そして氏綱の死後、北条氏は再度今川氏との関係を深め、さらには武田氏とも同盟を結ぶことでより巨大化していくのです。
【参考文献】
- 黒田基樹『 中世武士選書 戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)
- 湯山学『伊勢宗瑞と戦国関東の幕開け』(戎光祥出版、2016年)
- 黒田基樹『図説 戦国北条氏と合戦』(戎光祥出版、2018年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄