「北条氏繁」北条綱成の嫡男として玉縄北条氏の家格を向上させた

大名としての北条氏を支えた「玉縄北条氏」は、北条氏綱の三男・北条為昌が出自となり武勇を轟かせる武将を排出した家系として知られています。

特に著名な人物としては、「地黄八幡」の異名で武勇を轟かせ、他家に恐れられた北条綱成が挙げられるでしょう。その綱成の息子である北条氏繁(ほうじょう うじしげ)もまた、玉縄北条氏を盛り立て家格を向上させました。

今回はその氏繁の生涯について、文献や史料に基づいた形で解説していきます。

綱成に付き従い頭角を現すように

北条氏繁(康成とも)は、天文5年(1536年)に北条綱成の嫡男として生まれました。

母は綱成の正室である大頂院殿で、幼名は善九郎。元服した当時は実名を「康成」と称しており、偏諱(名を与えられる)の経緯や氏康の娘・新光院殿を娘婿に迎えた事実は、氏綱から同様の措置を受けた綱成と全く同一の経歴をもっていることを意味しています。

氏繁が史料に初出するのは永禄元年(1557年)のことで、陸奥の白川氏という一族との取次を担当していました。その後もいくつかの家との間に取次の役割を果たしていたほか、上総国に渡海していた可能性も指摘されています。

永禄4年(1561年)に上杉謙信が来襲した際には、父綱成が不在の中で玉縄城をよく守り、鎌倉地域周辺を確保することに成功しました。このことから、氏繁は若かりし頃より綱成に付き従い、あるいは代役として軍事や外交面で活躍を見せていることがわかります。

もっとも、綱成と何もかもが同じという訳ではなく、氏繁は北条氏出身であったため綱成だけではなく氏康からも子息同様の扱いを受けていました。これは櫛間氏出身と推測される父と大きく異なる点で、後に玉縄北条氏の家格が向上するのはこの出自が大きく関係していると考えられます。

御一門衆に準ずる人物として軍事・外交の両面で活躍

氏繁は永禄10年(1567年)に北条氏が領有した武蔵国岩付領(現在の埼玉県さいたま市付近)の岩付城城代に任じられると、同地の支配と国衆の統制を行なうようになりました。また、同年には鎌倉代官の職を兼任し、越相同盟の締結に際しても起請文を提出しています。

こうした扱いは氏繁が氏康の子息として扱われたことを示しており、元亀元年(1570年)には本格的に岩付地域の支配を開始しています。これに際して、元亀2年(1572年)末には綱成から家督を継承し、同時に名を氏繁に改めました。この改名で氏繁が北条氏の通字「氏」を称したことは、玉縄北条氏の家格が向上したことを示しています。

また、氏繁が家督を継承すると同時期に北条家が上杉家との同盟を破棄したことで、彼の在城する岩付城は上杉方との最前線に位置する重要な地域となりました。したがって、氏繁は北条との国境付近にある上杉方の拠点を攻略する先兵の役割を任じられることに。

ここからは軍事面での活動が増えていき、天正元年(1573年)には古河足利家臣の梁田氏を迎撃。翌年からは深谷城・羽生城などを相次いで襲撃し、梁田氏の在城である関宿城の攻撃も担当しました。さらに、これらの城を救援するために侵攻してきた上杉謙信を迎え撃つべく、上野国に在陣し危機に備えました。

佐竹氏の抑えとして飯沼城に在城中、病に倒れる…

氏繁の活躍により上記の城については攻略がなされ、その後彼は常陸方面の攻略を担当しています。この理由は天正5年(1578年)に下総結城氏が北条から離反したことで、佐竹氏と隣接する同地域の防衛が緊急の課題として浮上したためです。

佐竹氏への対策として同年には飯沼城が築城され、氏繁は同地に在城して佐竹勢力への防衛とその後の攻勢に備えることになります。ただし、結城氏の離反に伴う緊急の措置であったため飯沼城の建築は彼が入った後も継続されており、その普請工事も彼自身が担当していました。

天正6年(1579年)には普請工事もひと段落し、ようやく氏繁も戦に集中できるかに思われました。しかし、同年には氏繁が病を発症したと推測され、北条氏が結城氏の勢力下を攻撃し、その救援に訪れた佐竹氏と対峙した際に彼は従軍していませんでした。

そして、氏繁の病は快方に向かうことなく、同年中に亡くなったと伝わっています。亡くなった日付については諸説がありますが、10月3日という説が濃厚のようです。なお、氏繁が亡くなった時にまだ綱成は尊命中であり、彼は父よりも早くに亡くなってしまいました。氏繁の死後玉縄北条氏は嫡男の氏舜が家督を継承しましたが、この嫡男については史料が少なく詳しいことがわかっていません。


【主な参考文献】
  • 下山治久『後北条氏家臣団人名事典』東京堂出版、2006年。
  • 黒田基樹『北条氏康の家臣団:戦国「関東王国」を支えた一門・家老たち』洋泉社、2018年。
  • 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年。

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  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

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