「三船山合戦(1567年)」北条、大軍投入でも安房里見氏を降せず。

 伊豆国・相模国を足場にして関東に進出し、あの上杉謙信や武田信玄とも対等に渡り合った北条氏3代目当主の北条氏康。ただ、そんな氏康と対立した大名は謙信や信玄だけではありません。謙信と手を結んだ安房国の里見氏もまた、房総半島の支配を巡って北条氏と対立していたのです。今回は北条氏が里見氏に大敗を喫した「三船山合戦」についてお伝えしていきます。

里見氏との争い

 北条と里見の対立は、三船山合戦以前より既に、北条氏康が房総半島にまで触手を伸ばしたことではじまっていました。

第二次国府台合戦

 永禄7年(1564)、北条方の太田康資(江戸太田氏)が里見方に寝返ったのをきっかけに里見義弘が下総国市川国府台に侵攻。「第二次国府台合戦」と呼ばれた、北条と里見の戦いの幕開けです。当時の北条家は氏康が隠居しつつも「御本城様」と呼ばれながら実権を握っていた時期でもあります。

 この合戦では先陣をきった遠山綱景や隼人佑親子の他、富永康景らが討ち死にするなど、北条方は緒戦に苦しみましたが、氏康が里見勢の油断を突いて夜襲を行い、最終的には里見勢を撃退して逆転勝利しています。

 この結果、江戸太田氏は没落。また、里見方だった上総国勝浦の正木時忠、東金酒井胤敏らも里見氏を見限って、北条氏に従属しました。その一方で土気酒井胤治は里見方に寝返りますが、氏康はすかさず翌年には土気酒井氏を攻めています。この勝利で北条氏は上総国に大きな布石を打ち込むことに成功しました。


謙信の帰国と関東の勢力図の変化

 当時の関東の国衆は北条方と上杉方に二分され、情勢を見極めて北条氏に味方したり、上杉氏に味方したりしていました。しかし、永禄9年(1566)4月に、謙信が下総国小金城攻めと臼井城攻めに失敗し、5000人の戦死者を出して帰国すると状況が一変。北条方に味方する国衆が続出したのです。

 5月以降、武蔵国忍成田氏、上野国新田横瀬氏、小泉富岡氏、館林長尾氏、下野国小山氏、宇都宮氏、皆川氏、下総国結城氏、関宿簗田氏、栗橋野田氏、常陸国小田氏、上総国土気酒井氏らが北条氏に従属。さらに謙信の重臣である上野国厩橋城の北条高広までが北条氏に味方し、常陸国の戦国大名である佐竹義重が北条氏と和睦したことで、関東のほとんどが北条氏の勢力下になりました。

三船山合戦

里見氏の本拠である佐貫城攻め

 このように関東での北条氏の優勢は圧倒的なものでした。この勢いで上総国を一気に制圧してしまおうと考えたのも当然のことです。すでに上総国の北部と西部は占領しており、さらに東部の国衆も北条氏に従属しています。最大の抵抗勢力は佐貫城に本拠を構える里見氏でした。

 この頃、すでに家督を継いでいた北条氏政は、岩付太田氏の当主となった太田氏資を引き連れて江戸湾を渡り、佐貫城攻略に動きます。氏資は氏康の娘婿で、第二次国府台合戦で敗北した後、岩付氏当主であった実の父親・資正を追放して当主の座に就き、北条氏に味方していたのです。

 北条勢は佐貫城攻略のため、わずか南1里の三船山の山麓に砦を築きます。ここを拠点に攻められたら佐貫城が陥落すると危険性を感じた義弘は正木憲時を従えて、佐貫城を出陣し、三船台を攻めたのです。氏政と義弘の激突です。

これが永禄10年(1567)8月に起きた「三船山合戦」です。史実の詳細は残されていないため、軍記物の記述だけが後世に伝わっています。

三船山合戦マップ。色塗部分は上総国

正木憲時の横槍で敗北

 氏政は伏兵を配し、里見勢をおびき出して叩こうと考えます。そして里見勢と一戦を交えてわざと退却し、敵を追撃させようとするのですが、義弘はこれにのせられませんでした。

 おそらく氏政の策略を見抜いていたのでしょう。見抜いていればこそそれを逆手にとることができます。氏政は作戦を力攻めに切り替えますが、その動きは察知されており、里見方の正木憲時が隙をうかがっていたのです。

 攻め込んだ北条勢でしたが、この憲時の横槍を受けて総崩れしました。しかも一帯が沼沢地だったため退却に手間取り大きな被害を受けてしまったのです。

 殿を任された太田氏資は最期まで戦い続け討たれます。これにより岩付太田氏は後継者を失いますが、氏政は三男の国増丸に岩付太田氏を継がせ、国増丸は太田源五郎を名乗って当主となっています。岩付太田氏は完全に北条氏に接収されてしまったわけです。大敗を喫しながらも命拾いした氏政は本国へと撤退しました。義弘は第二次国府台合戦のリベンジを見事に果たしたのです。

その後の里見氏との関係

上総国制圧を諦める

 北条勢を撃退したことにより、里見勢は息を吹き返します。義弘は北条氏の領土だった真里谷領を攻略。第二次国府台合戦の敗北後に北条氏に寝返っていた勝浦の正木時忠も再び里見氏に帰参しました。これで上総国における北条氏の勢力は大きく削がれることになります。

 氏政は上総国制圧を諦めますが、その理由はこの三船山合戦の敗北のほか、実はもうひとつ重要な事件が起こったからです。永禄11年(1568)、これまで北条や今川と三国同盟を結び、北条氏の勢力拡大にも大きな影響を与えていた武田信玄が今川氏の駿河国に攻め込んだのです。

今川攻めで出陣する武田信玄

 氏政は今川氏との同盟を尊重し、駿河国に援軍を送り、武田氏と交戦状態に陥ります。こうなるともはや佐貫城攻めに戦力を注いでいる場合ではありません。信玄が駿河国を攻めたのは、今川義元が桶狭間の戦いで討たれ、そこから今川氏がどんどん失墜していったためですが、三船山合戦で北条氏が里見氏に大敗したこともそのきっかけだったかもしれません。

 既に力を失っていた今川や、里見に敗北した北条氏と手を組むより、勢いのある織田信長や徳川家康と手を結んだ方が得策という判断をさせてしまったのではないでしょうか。

里見氏との婚姻

 その後、北条は敵対していた上杉氏と同盟を結んで武田氏に対抗。しかし元亀2年(1571)の北条氏康の死をきっかけにその同盟も破棄され、再び武田氏と同盟を結びます。

 その間も北条と里見の対立は続いていましたが、両者の対立が沈静化するのは天正5年(1577)のことです。この頃には北条氏優位の状態で、義弘は降伏に近い形で氏政と和睦しています。ここで氏政の娘である竜寿院殿が義弘の嫡子である里見義継(義頼)に嫁ぎ、北条氏と里見氏は姻戚関係を結ぶのです。

 大勢力である北条氏が里見氏を滅ぼすことなく、和睦を認めたのは、三船山合戦での里見氏の健闘ぶりがあったからこそかもしれません。氏政にとって里見氏は味方につけておくにふさわしい存在だったわけです。

おわりに

 北条氏の歴代当主の顔ぶれを見ていくと、どうしても4代目の氏政は、北条氏を滅亡に導いた暗愚の当主という印象がありますが、この三船山合戦の敗北もさらにそのイメージを強める効果があったのではないでしょうか。

 氏政がこの戦に勝利し、上総国を制圧するだけでなく、その勢いで里見氏の本拠のある安房国も制圧することに成功していたら、勢力図は大きく変わっていたはずです。武田氏や上杉氏との関係も違っていたでしょうし、秀吉が台頭してきた際にも、氏政は家康と組んで圧倒できる存在になっていたかもしれません。

 結果として上総国制圧を諦めることとなった三船山合戦の敗北ですが、その影響は一国の支配だけに留まらず、北条氏の将来を決めるほどだったのではないでしょうか。




【参考文献】
  • 黒田基樹『図説 戦国北条氏と合戦』(戎光祥出版、2018年)
  • 伊東潤・板嶋恒明『北条氏康 関東に王道楽土を築いた男』(PHP研究所、2017年)
  • 黒田基樹『 中世武士選書 戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)
  • 葛飾区HP「葛飾区史

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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