「北条幻庵(宗哲)」一族の長老的な存在として後北条氏を支え続けた重鎮
- 2020/03/24
戦国時代に武田信玄、上杉謙信、今川義元、織田信長らと競い合った関東の雄「北条氏」(後北条氏)の強みは、一族が結束していたことでしょう。北条氏では家督争いがまったく起こっていません。兄弟や叔父・甥らが仲違いせずしっかりと当主を支えているのが他の勢力との大きな違いです。
今回はこの「御一家衆」の筆頭的存在だった北条宗哲(ほうじょう そうてつ、北条幻庵とも)についてお伝えしていきます。
今回はこの「御一家衆」の筆頭的存在だった北条宗哲(ほうじょう そうてつ、北条幻庵とも)についてお伝えしていきます。
初代当主の末子として誕生
生年、没年は謎
北条宗哲は北条氏の初代当主である「北条早雲」(早雲庵宗瑞、以降は早雲と表記します)の末子と伝わっています。『北条五代記』によると、生年は明応2年(1493)ですが、これは没年から逆算して求めたものです。これが通説となっていますが、近年の研究によって生年も没年も誤っているのではないかと指摘されており、実際の誕生は、通説よりもかなり後になる永正年間(1504~21)ごろというのが有力です。
また、天正11年(1583)を最後に史料上にもまったく登場しなくなることから、天正13年(1585)ごろにはすでに亡くなっていたのではないかという説もあります。
宗哲の生年も没年も未だ謎に包まれているのです。
北条氏当主との年齢差
早雲の末子だとすれば、2代目当主となる北条氏綱の弟ということです。氏綱は長享元年(1487)生まれですから、仮に宗哲が永正年間半ばに生れたとすると25歳近くの年齢差があります。当時で考えれば親子の年齢差ほどです。氏綱の嫡子で3代目当主となる北条氏康は永正12年(1515)生まれですから、氏康と宗哲はほとんど年齢差がなかったのではないでしょうか。氏康にとって宗哲は叔父というよりも兄弟同然だったのかもしれません。早雲は永正16年(1519)、氏綱に当主を譲って隠居した後に亡くなっています。
宗哲が父親である早雲と共に過ごした時期はとても短かった可能性があります。
箱根権現別当に就任
宗哲の出家と北条への改姓は同時期
宗哲の幼名は菊寿丸です。早雲は幼い宗哲をすぐに箱根権現に入寺させます。宗哲は関東武士の信仰を集めるこの箱根権現の別当(統括職)となる運命でした。永正16年(1519)には3500貫文の箱根権現領別当堪忍分を継承しており(合計4400貫文を継承)、すでにこのときから実質的には別当扱いだったと考えられます。
その後、大永2年(1521)に近江国三井寺上光院へ移り、大永4年(1523)に出家。ほどなくして帰国し、箱根権現別当に正式に就任しています。宗哲が別当を後継者に譲った後も、箱根権現領は宗哲の所領として扱われています。
ちなみに宗哲が出家した年に、当主氏綱がこれまでの伊勢姓から北条姓に改姓しました。北条氏として栄えていくのはこのタイミングからになるのです。
法名は 長綱? 宗哲?
宗哲にはふたつの法名があり、そのひとつが「長綱」です。これは箱根権現別当に就任してから名乗ったものだと考えられます。綱は氏綱の一字で、長の一字は古義真言宗に継承されるものです。箱根権現は高野山や東寺といった真言宗密教系と深いかかわりがあり、長綱の法名はそれを示しています。ただしこの法名を用いていたのは天文15年(1546)までです。
もうひとつの法名が「宗哲」です。早雲が宗瑞と名乗ったのと同様、臨済宗大徳寺派の影響を受けたものだと考えられます。こちらは天文5年(1536)より確認されており、どう使い分けていたのかは不明ですが、宗哲は10年間ほどふたつの法名を併用していたということです。
北条宗哲のことを北条幻庵とも呼びますが、こちらも早雲同様で、正しくは早雲庵宗瑞であり、宗哲にも庵号があってそちらが幻庵でした。つまり正しくは「幻庵宗哲」。天文14年(1545)より使用していたことが確認されています。
こうしてみると僧侶としての存在感が強い宗哲ですが、北条氏の中枢にあり、軍事面も支えています。宗哲は御一家衆としてとても大きな力を持っていたのです。それでは武将としての宗哲を見ていきましょう。
武将としての宗哲
大将のひとりとして合戦に参加
宗哲は当主である兄の氏綱や甥の氏康、さらにもうひとりの甥である北条為昌と共に大将のひとりとして甲斐国の武田氏との合戦に参加しています。天文4年(1535)の甲斐国山中合戦です。ここで北条勢は武田氏当主武田信虎の弟である勝沼信友を討ちました。さらに同年に武蔵国で起きた入間川合戦にも宗哲は参加しています。
宗哲が武勇に優れていたのかどうか、戦場での駆け引きに長けていたのかどうかはわかりませんが、宗哲の落ち着いた性格からして、どっしりと構えて北条勢に安心感を与えていたのではないでしょうか。だからこそ氏綱や氏康の信頼も厚く、宗哲の軍勢や領土は増していくのです。
為昌死去後、小机衆を率いる
天文10年(1541)に氏綱が亡くなると、当主に嫡子の氏康が就きます。その際、弟の為昌の所領は北条氏の領国の半分も占めていましたから、氏康・為昌の兄弟支配体制という形式でした。しかし翌年には為昌も23歳という若さで亡くなってしまいます。為昌の所領は分割して相続され、宗哲はその中から武蔵国小机領と小机衆を継承しました。彼には箱根権現領もありましたから、保有する所領は広大で、北条氏の領国支配の中心人物といっても過言ではありませんでした。
こうした背景から宗哲は天文12年(1543)より自身の朱印を使用し始めます。「静意」の印文が刻まれた朱印で、「幻庵印判」「久野御印判」とも呼ばれています。
ちなみに久野というのは、宗哲が小田原城近くの久野という場所に住んだことから「久野殿」と呼ばれていたことにちなんでいます。ですから宗哲の子孫は「久野北条氏」として区別されているのです。
宗哲はこの朱印を用いて支配文書を発給していたわけです。北条氏当主に匹敵するほどの重要な立場であったことを示しています。
武蔵国小机領は、宗哲の嫡子である北条三郎に譲られましたが、三郎は永禄3年(1560)に死去。その後は氏康の弟で、宗哲が後見人として育ててきた北条氏堯が継承し、その氏堯が永禄6年(1563)に死去した後は、宗哲の次子である北条氏信が小机領を継いでいます。
宗哲は弘治年間(1555~58)にいったん隠居していますが、北条氏の統治には深く関わり続けました。
教養は御一家衆でNо.1?
影響力の高かった宗哲の作品
宗哲のもうひとつの顔が、文化人としての宗哲です。手先が器用だっただけではなく、創造力にも優れていたのでしょう。宗哲の作品はかなりの影響力を持っていました。例えば尺八ですが、宗哲の作った尺八は「一節切の尺八」と呼ばれておりたいへんな人気を誇っています。あまりの流行ぶりで、朝廷までもが所望したと伝わっています。つまり相模国近郊の話ではなく、全国区の作品を編みだしているのです。
また、もともと伊勢氏は鞍作りの技術を相伝しており、宗哲も早雲から鞍作りの技を受け継いでいました。宗哲の鞍もまたたいへんな人気で、当時の武士の多くが宗哲の鞍を用いたといいます。さらに宗哲は弓細工の他、風流のセンスが抜群で、石台作り、茶臼作りにも長けていたようです。
和歌や連歌にも精通
このほか、和歌や連歌にも通じており、もともと三井寺にも出入りしていたことから京都との関わりも深く、公家を招いて歌会や連歌会を催しています。天文3年(1534)には冷泉為和を招いて歌会を催していますし、天文14年(1545)には連歌師の宗牧を招いて連歌会を催しています。いかんなく宗哲はそのセンスを発揮したことでしょう。
このように北条氏の一族の中でもっとも文化人だったのが宗哲だったのです。
娘に送った宗哲覚書
宗哲の教養の深さを物語っているものに、娘に送った大名の奥方としての心得を記した『宗哲覚書』があります。宗哲は氏康の弟である氏堯の後見人を務めつつ、さらに御一家衆の吉良氏朝の後見人も務めました。氏康の甥で、吉良頼康の養子となった氏朝は、永禄3年(1560)に正室を迎えていますが、これが宗哲の娘であると考えられています(名目上、氏康の養女となっている可能性もあります)。
宗哲がその輿入れの際に娘に渡したのが漢字交じりの仮名文で、全24条からなる『宗哲覚書』です。この覚書は、当時の大名家奥向きの様子を記した貴重な史料であり、これにより大名の奥方としてどこまでの教養が必要だったのかを知ることもできます。宗哲はまた、この娘が希望する太平記も書写して渡しています。おそらく宗哲は多くの古典的文芸書を所蔵していたことでしょう。
モラル、マナーといった一般教養にも精通しており、宗哲自身が北条氏の家中の手本となっていたに違いありません。軍事面、政治面、文化面、そして教養面と様々な影響力を持っていたのが宗哲なのです。江戸城代の遠山綱景は、氏康夫婦と並び宗哲に認められることを願って武蔵国の六所明神に願文を捧げています。
おわりに
宗哲が通説となっていた97歳の長寿でなかったとしても、80年間以上生き、北条氏を支え続けたのは確かです。弱肉強食、親子ですら殺し合う戦国時代において、北条氏が一族結束していけたのは、教養を備え、政治面でも軍事面でも存在感を示した宗哲の存在あってのことかもしれません。北条氏が下克上の中でここまで突出して関東に一大勢力を築けた裏側には、長老的な存在の宗哲がいたことを忘れてはいけないでしょう。
【参考文献】
- 黒田基樹『北条氏康の家臣団』(洋泉社、2018年)
- 黒田基樹『戦国北条家一族事典』(戎光祥出版、2018年)
- 黒田基樹『 中世武士選書 戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)
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