【家系図】後北条氏のルーツ、および北条五代の歴史まとめ
- 2019/11/11
北条早雲は相模国において戦国大名の中で最も早く検地を行っていますが、もともとは相模国の守護でも守護代でもありません。相模国出身の国人ですらないのです。
そもそも早雲は北条の姓を名乗ってはいません。それでは戦国時代に関東に絶大な勢力を誇った北条氏(後北条氏)とはどのように誕生し、いかに発展していったのでしょうか? 今回は後北条氏のルーツと歴代の当主の活躍についてお伝えしていきます。
そもそも早雲は北条の姓を名乗ってはいません。それでは戦国時代に関東に絶大な勢力を誇った北条氏(後北条氏)とはどのように誕生し、いかに発展していったのでしょうか? 今回は後北条氏のルーツと歴代の当主の活躍についてお伝えしていきます。
はじめに
戦国期の北条氏といえば、五代にわたって関東に一大勢力を築き上げた大大名として有名ですね。後北条氏のルーツや歴史を知る上での大前提として、まずは北条五代の略系図を確認しておきましょう。初代・北条早雲は1代で2ヶ国を支配する偉業を成し遂げ、後北条氏の祖とされています。3代氏康、4代氏政、5代氏直なども比較的知られている人物でしょう。しかし、そもそも早雲が何者なのかはあまり知られていないのではないでしょうか。さっそくその点から次項でみていきましょう。
なお、早雲とは出家後の庵号です。法名は宗瑞ですので、「早雲庵宗瑞」が正式名称になりますが、一般に北条早雲の名で知られていますので、今回は統一して「早雲」と表記していきます。
早雲の素性で有力な説は何か
伊勢盛定の次子
早雲の出自は江戸時代には既に不明確となり、諸説存在していたようです。そうした諸説をもとにして、明治時代の研究者が整理したものが以下になります。早雲の出自
- 備中伊勢氏説
- 京都伊勢氏説
- 伊勢素浪人説
早雲の生誕地
- 山城国京都 or 宇治説
- 大和国在原説
- 伊勢国説
ただし、江戸時代前期の良質の系図類や軍記物には、早雲の出身地は大半が備中国となっているなど、上記の整理は必ずしも正確ではないようです。
これまでの通説では「伊勢素浪人説」が有力でしたが、最近の研究により、早雲は伊勢新九郎盛時と同一人物であることがわかってきました。
そうした結果、現在では「備中伊勢氏説」がもっとも有力な説となっています。後北条氏のルーツは備中伊勢氏の庶流ということであり、後北条氏の本拠となる相模国とは縁もゆかりもなかったのです。
「備中伊勢氏説」を前提とすると、早雲の父親は伊勢盛定です。彼は備中国荏原郷の領主である伊勢氏の庶子でありながら、本宗家伊勢貞国の娘を妻にしています。この妻が早雲の母です。
盛定は本宗家と今川氏の取り次ぎを担っていました。彼の受領名は「備中守」や「備前守」を称していますから、本宗家に次ぐ地位だったことがわかります。
また、早雲は貞国の孫ということになり、室町幕府政所執事を務めた伊勢貞親の甥にあたります。その関係で9代目将軍である足利義尚の申次衆や直属軍にあたる奉行宗に属していました。早雲は素浪人どころか、超エリート街道を進んでいたのです。
初代早雲
甥である今川氏親の家督相続に尽力
早雲の姉である北川殿(妹という説もあり。北河殿)は、駿河国を支配する今川氏当主の今川義忠に嫁いでおり、今川氏親は早雲の甥にあたります。今川氏では義忠が突如討死して家督争いが生じますが、早雲は駿河国に下向してこれを仲裁。最終的に対抗馬の小鹿新五郎範満を倒して甥の氏親を今川氏7代目当主へと導いています。
この功績によって早雲には駿河国富士郡下方荘と駿東郡興国寺城が恩賞として与えられました(興国寺城ではなく善徳寺城という説もあり)。この後、早雲はしばらく今川家臣として氏親と行動をともにし、今川家の勢力拡大の中核を担います。
ここから早雲は戦国大名へのスタートをきったのです。
幕府や今川氏に協力し堀越御所を攻略
早雲が出家する機会となったのが、明応2年(1493)の伊豆乱入と考えられています。早雲の野心から伊豆乱入が起こったという説もありますが、その背景には関東管領である山内上杉氏と相模国守護の扇谷上杉氏の対立がありました。また管領である細川政元のクーデターとも連動していたようで、政元と親密だった早雲が新将軍足利義澄の仇である堀越公方の茶々丸を攻めています。そして明応4年(1495)には堀越御所を攻略し、伊豆国の韮山城を本拠と定めたのです。
この時点では早雲は扇谷上杉氏を支持しており、山内上杉氏の侵攻に対して援軍を派遣しています。早雲には相模国侵攻の気配はありません。伊豆乱入、堀越御所攻めはあくまでも幕府の意向に従った今川氏の軍事行動であり、それを率先して支持して兵を統率したのが早雲だったということではないでしょうか。
ちなみに早雲は明応3年(1494)、文亀元年(1501)に今川勢の大将として遠江国へも侵攻しています。早雲は今川氏に属した中心武将だったということです。
独立勢力となり、相模国も制圧
やがて北条氏の本拠で知られる相模国の小田原城を奪取しますが、これをどのように攻略したのかの正確な記録はありません。計略を用いて大森氏から城を奪ったという逸話がありますが、これはフィクションです。山内上杉氏の侵攻を受けた大森氏が扇谷上杉氏を見限った後、扇谷上杉氏に味方する早雲が城を攻略したと考えられます。時期的には明応5年(1496)から文亀元年(1501)の間です。
早雲はこの後、永正3年(1506)西郡の宮地郷、松田郷で検地を行っており、これが戦国大名初の検地とされています。早雲の検地は今川氏がその手法を真似て遠江国で検地を行うなどし、全国の戦国大名へ波及していくのです。
こうなるともはや早雲は独立した勢力であり、山内上杉氏だけではなく、扇谷上杉氏とも対立していきます。一時期は扇谷上杉氏の本拠地である江戸城へ迫るほどの勢いでしたが、扇谷上杉勢の反撃を受けて敗北したり、和睦する過程を経ながらも圧力をかけて相模国中郡の岡崎城を攻略。そして永正10年(1513)には三崎城を攻略し、相模国を制圧。二か国を有する大名になるのです。
2代氏綱
なぜ北条氏に改称したのか?
永正15年(1518)、早雲は隠居し、家督を嫡男の伊勢新九郎氏綱に譲りました。翌年に亡くなっています。後北条氏では、この生前に家督を息子に譲るという仕組みが代々受け継がれていき、戦国大名としては珍しく家督争いが起きないのです。そして兄弟が支城の城主を務めることで、本拠地である小田原城を支えていきます。これが後北条氏の強さの秘訣でもありました。
本拠地を韮山城から小田原城に移したのは2代目当主の氏綱です。氏綱は相模国の支配者として誇示するため、領国内の有力寺社の造営事業に着手しました。
しかしそれでも伊勢氏はよそ者というイメージが根強く、それを払拭するために氏綱は大永3年(1523)、「伊勢氏」から「北条氏」に改称します。
この「北条」とは、鎌倉幕府で執権を務めた北条氏が由来です。北条氏は代々相模国守護に任官されており、相州太守と称されていました。現状での相模国守護は扇谷上杉氏であり、それに対抗するために北条の姓を利用したわけです。
こうして北条氏綱を名乗り、大義名分を得ながら武蔵国へ侵攻、山内上杉氏や扇谷上杉氏の領地に攻め込みました。
甲駿相三国同盟の成立
そんな中で事態が急変したのが天文5年(1536)のことです。今川家では、1ヶ月ほど小田原城に滞在していた今川氏輝が駿府に戻った後に急死したことでまたもや家督争いが勃発。「花倉の乱」と呼ばれた、梅岳承芳(のちの今川義元)派と玄広恵探派による争いです。氏綱は梅岳承芳を支持したという説と、庶兄の玄広恵探を支持したという説がありますが、後者の可能性が高いでしょう。義元は家督を継ぐと、これまで敵対していた甲斐国の武田氏と姻戚関係を結び、北条氏と対立する政策をとったからです。
もっとくわしく
その翌年、氏綱はすぐさま駿河国の河東に侵攻し、そこから長く今川氏や武田氏と交戦していきます。これは「河東の乱」と呼ばれます。
その間に妹が古河公方の足利晴氏に嫁いで、北条氏が足利氏の御一門となり、氏綱は関東管領に補任されています。北条氏綱と山内上杉憲政という、関東管領が二人いる状態です。北条氏がそれだけの家格となったことを示しています。
3代氏康
しかしそんな最中に氏綱が天文10年(1541)に病没し、27歳の嫡子北条氏康が家督を継ぎました。氏康は天文14年(1545)に長久保城を今川氏に割譲してようやく和睦。その代わりに翌年に河越城を攻めて扇谷上杉氏を滅ぼしました。さらに山内上杉氏の本拠地である平井城も攻め、天文21年(1552)には憲政を追い出し上野国をほぼ制圧します。そして氏康は娘(早河殿)を今川義元の嫡子である今川氏真に嫁がせ、自らの嫡子である北条氏政の正室に武田晴信(武田信玄)の娘を迎えました。
こうして「甲駿相三国同盟」が成立したのです。北条氏は紛れもなく関東最大勢力にまで拡大していました。
謙信や信玄との戦い
氏康は永禄2年(1559)に家督を嫡子の北条氏政に譲りましたが、依然として小田原城に住み、御本城様と呼ばれながら実質支配者として君臨し続けています。永禄4年(1561)には憲政を保護した越後国の長尾景虎(上杉謙信)が関東に侵攻し、小田原城を包囲するまでに攻め込まれますが籠城でしのぎきり、さらに武田氏と共に反撃して領土を回復しました。しかし信玄が三国同盟を破棄し、永禄11年(1568)に今川氏の駿河国に侵攻を開始。氏康は同盟国・今川への援軍を派遣します。
武田と北条の戦いは長期にわたり、氏康は武田氏に対抗するために永禄12年(1569)には上杉謙信に関東管領を譲渡、上野国も割譲し、さらに末子の三郎(のちの上杉景虎)を謙信の養子に出して越相同盟を結んでいます。
それでも武田勢の勢いを抑えきれず、一時は小田原城目前まで攻め込まれています。そして元亀2年(1571)に氏康は病没しました。
4代氏政・5代氏直
すでに家督を継いでいる氏政はここで方針を一変し、謙信との同盟を破棄し、信玄と同盟を結びます。謙信がなかなか思うように援軍を出してくれなかったことが大きな原因だったようです。その後は信玄と謙信が病没し、さらに上杉氏の家督争いで景虎が敗北し、北条氏は上野国の支配権を改めて主張するようになります。
氏政は勢力を拡大していく織田信長に従属の意思を表明し、姻戚を望んでいました。嫡子の北条氏直の正室に信長の娘を迎えることを希望して使者を出していましたが、天文10年(1582)の本能寺の変によって状況が一変します。
氏政は大混乱となった旧武田領の上野・甲斐・信濃の三国を巡って、上杉景勝や徳川家康らと争う(=天正壬午の乱)ことになり、最終的に家康の娘を氏直の正室に迎えることで和睦、同盟を結びました。
北条滅亡
氏政も早い段階で氏直に家督を譲って隠居していますが、実質的な支配者として北条氏を率いています。関東を制圧するほどの勢力を有していたこともあり、信長の後継者である豊臣秀吉に屈することを潔しとせず、四国、九州と制圧した秀吉と天文18年(1590)と激突。大軍に包囲されて支城は続々と攻略され、抵抗という抵抗もできずに最終的に小田原城を開城し、氏政は切腹、氏直は高野山への追放となりました。
氏直は家康の娘婿ということで助命されたと考えられます。氏直は高野山へ追放された後、正式に秀吉に赦免されて大坂城に移り住みました。
関東一円の支配者としての北条氏はこうして滅び、秀吉が天下を統一したのです。
おわりに
早雲は下克上・戦国大名の先駆者的な存在として登場し、氏政と氏直の降伏は戦国時代の終結を意味しています。その点において、後北条氏はまさに戦国時代を象徴する勢力でした。上杉氏や武田氏、織田氏や徳川氏と比較するとやや地味な印象は拭えないですが、その活躍ぶりはそれらの戦国大名に匹敵するものだったといえるのではないでしょうか。
【参考文献】
- 黒田基樹『 中世武士選書 戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)
- 黒田基樹『図説 戦国北条氏と合戦』(戎光祥出版、2018年)
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