実在した巨大刀!「大太刀」の世界と遣い手たちの物語
- 2022/01/01
武士を象徴する武器である日本刀は、「折れず・曲がらず・よく切れる」という、およそ刀剣が求める命題のすべてに応えたといっても過言ではない性能を持っています。その完成された姿ゆえか、日本の白兵戦用武器は西欧や中国などの例と比べると、多くのバリエーションはないように感じられます。
片刃の湾刀という基本的なスタイルはそのままに、長短によって用途を分けるのが一般的でした。 江戸期の武士の正式装備であるいわゆる「大小差し」もそうで、短いほうを「脇差」、長いほうを便宜上「大刀」と呼んでいます。
しかし、この大刀よりもはるかに長大な日本刀が存在したのです。 ストレートに「大太刀」と呼ばれるそれらは、時に自らの身長をすら上回る強大な武器として戦場を席巻しました。本コラムでは、そんな物語に出てくるような巨大刀、「大太刀」にスポットライトを当ててみましょう。
片刃の湾刀という基本的なスタイルはそのままに、長短によって用途を分けるのが一般的でした。 江戸期の武士の正式装備であるいわゆる「大小差し」もそうで、短いほうを「脇差」、長いほうを便宜上「大刀」と呼んでいます。
しかし、この大刀よりもはるかに長大な日本刀が存在したのです。 ストレートに「大太刀」と呼ばれるそれらは、時に自らの身長をすら上回る強大な武器として戦場を席巻しました。本コラムでは、そんな物語に出てくるような巨大刀、「大太刀」にスポットライトを当ててみましょう。
「大太刀」という兵装
通常、「大刀」と呼ばれる刀身の長さは二尺三寸(約69.7cm)程度を標準とし、これを「定寸(じょうすん)」といいます。江戸時代成人男性の平均身長から割り出した、扱いやすい刀のサイズと言い換えてもよいでしょう。刀身長が二尺五寸(約75.7cm)を超えるものは長刀と認識されるようになり、現代日本人男性の平均的な体格をもってしても、慣れないと納刀も難しいサイズとなります。
ところが、大太刀はそれをはるかに上回る三尺(約91cm)以上の刀身をもっているのです。正確な分類は統一されておらず、研究者によって基準は異なるものの、柄を含めるとゆうに自身の身の丈を上回るほどの長大刀が存在しました。そればかりか、3mに届こうとする規格外の大太刀も文献上に登場し、2m超の実戦刀も現存しています。
日本刀が大型化していったのは鎌倉時代のことですが、大太刀がもっとも隆盛したのは南北朝時代のこととされています。ごく短い期間ではありましたが、戦乱が長大な刀へのニーズを生み出したと考えられるでしょう。
戦の様子を描いた絵図の中には、大太刀を肩に担いで騎乗する武士の姿や、徒歩の従卒が大太刀を持って騎馬武者に随行する様子などが確認できます。
ちなみに、創作やメディア作品の中で長大な日本刀を「斬馬刀」と呼んで扱うことがありますが、本来は中国の歴史上の武器であり、日本刀の分類名ではありません。
大太刀の遣い手たち
大太刀はあまりにも長大であるゆえに重量も比例し、一種の示威的な武装と考えられることもあります。ところが、文献では実際にそれを使用した武士の話が確認でき、現代に伝わる古流剣術の中にも大太刀の技を伝える流派が存在しています。大太刀はそのリーチと重量から、槍などの長柄武器に有効な側面をもっているといいます。ただし、体格に恵まれた者でないと扱いそのものが困難であることから、万人向けの武器ではありませんでした。
軍記物語や伝承に登場する大太刀の遣い手たちも巨躯の持ち主とされていますが、伝世する甲冑の中には標準よりひと回りも大きいものがあることから、巨漢の武将の存在は高い信憑性があると考えられるでしょう。
戦国武将で大太刀の遣い手といえば、越前朝倉家中の「真柄十郎左衛門直隆」がもっとも有名かもしれません。刃長五尺三寸(約160cm)にも及ぶ「太郎太刀」を手に、姉川の戦い(元亀元年・1570)で敗色濃厚となるや敵の徳川陣営に突貫、壮絶な最期を遂げたという豪傑です。
直隆の愛刀・太郎太刀は現代にまで伝わり、名古屋市の熱田神宮宝物館に展示されています。ここにはもう一振り、弟の直澄のものとも子の隆基のものとも伝わる「次郎太刀」が保管され、貴重な本物の大太刀を実見することができます。
武将ではありませんが、大太刀を遣った戦国期の有名人をもう一人ご紹介しましょう。徳川将軍家指南の一角「柳生新陰流」で知られる、「柳生兵庫助利厳」です。
「柳生の大太刀」と呼ばれる彼の刀は刃長四尺七寸八分(約145cm)、柄長二尺三寸(約70cm)というサイズで、長大な刀身とのバランスをとるため柄もまた非常に長いことがわかります。利厳は祖父である柳生石舟斎宗厳よりこの太刀を授けられ、尾張柳生家の宗家に代々伝えられました。現在では名古屋市・徳川美術館の所蔵となっています。
利厳がこの刀を実戦の場で使ったどうかはわかりませんが、愛知県に伝承する柳生新陰流では大太刀による形があり、その演武は奉納や行事で実際に見ることが可能です。大太刀がどのように振るわれたのかを想像させる、貴重な身体文化として受け継がれています。
奉納刀としての大太刀
最後に、平和な時代に大太刀がどのような役割を果たしたか概観して、まとめとしたいと思います。戦場で畏怖された大太刀は、やがて戦のない平和な時代の訪れとともにその役目を終えることになります。しかし、意外なところでの需要により、細々ながら作刀が続けられます。それは神社などへの「奉納刀」としてのもので、史上最大サイズの大太刀が山口県下松市の花岡八幡宮に伝わっています。
刃長は実に約345cm、茎を含めた全長約465cm、重量約75kg、とても人間が操れるものではありません。これは尊王攘夷思想が盛んだった幕末の長州で、魔を祓い安寧をもたらすことを祈念して打たれたもので、1tもの砂鉄を用いて焼き入れはせき止めた川の水で行ったと伝えられています。
大太刀の示す武威と霊験に人々が願いを込め、まさしく破邪顕正のシンボルとして奉じられたのでした。
【主な参考文献】
- 『歴史群像シリーズ【決定版】図説 日本刀大全Ⅱ 名刀・拵・刀装具総覧』歴史群像編集部編 2007 学習研究社
- 『歴史群像シリーズ特別編集【決定版】図説・日本武器集成』 2005 学習研究社
- 『別冊歴史読本 歴史図鑑シリーズ 日本名刀大図鑑』本間 順治監修・佐藤 寒山編著・加島 進協力 1996 新人物往来社
- 『図鑑 刀装のすべて』 小窪 健一 1971 光芸出版
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