【豊臣兄弟!】金ヶ崎の退き口!窮地に追い込まれた秀吉軍を救った「救世主」の正体とは?
- 2026/04/13
濱田浩一郎
:歴史学者・作家・評論家
- ※本記事は一部にプロモーションを含みます
大河ドラマ「豊臣兄弟」第14回は「絶体絶命」。
同作の主人公、秀長の全体像(生涯・人物像など)を把握・再確認したい方はこちら、「豊臣秀長」の解説コラムをご覧ください。
永禄13年(1570)4月20日、信長は若狭・越前に出陣し、越前朝倉方の手筒山城や金ヶ崎城(越前国敦賀)を攻撃しました。手筒山城は織田軍の猛攻により陥落。金ヶ崎城も程なく「降参」します。順調な織田軍ですが、そこに北近江の浅井長政が裏切ったとの報告が入りました。長政は信長の妹・お市を娶っていましたし、北近江の支配を信長から任されていましたので、信長からしたら「不足(不満)があるはずはない」と感じていたのです。よって長政の裏切りを「虚説」(嘘の情報)と見做したのですが、方々から「事実」との注進が入ります。それでやっと信長は長政の裏切りを信じ「是非に及ばず」(仕方がない)との言葉を残すのでした(『信長公記』)。
『信長公記』には、信長は金ヶ崎城には「木下藤吉郎」(秀吉)を残し、撤退したとあります。しかし、秀吉による金ヶ崎の退き口(撤退戦)についての記述は同書には記述されていません。『当代記』(編纂者は家康の孫・松平忠明か)には秀吉が金ヶ崎に「自分を残して欲しい」と信長に申し出たとあります。信長は秀吉の申し出を「快気」としたと言います。織田諸将は秀吉のために弓・鉄砲(足軽)を30・50人合力のため残したとのこと。他の史料(『武家雲箋』)には秀吉のみならず、明智光秀や池田勝正も金ヶ崎に残されたとあります。
また徳川方の史料(『三河物語』)には信長は家康に撤退を知らせずに退いていったとあるのです。『武功夜話』(前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜。偽書説もあり)は金ヶ崎の撤退戦を事細かに記述しています。そこには敵方により兵士が多く討ち取られ、窮地に立った秀吉(軍)を三河の徳川の軍勢が救う場面も描かれています。秀吉は撤退戦を切り抜けたのですが、「殿陣(しんがりのじん)殊勝」として信長は秀吉に感状を与えたとのこと。また褒美として黄金30枚を授与されたのでした。ちなみに『当代記』には家康軍が秀吉を救ったとの記載はありません。「藤吉郎秀吉」が無事に京に着いたことを記すのみです。
コメント欄