「久武親信」伊予軍代として元親に最も信頼されていた男
- 2023/09/28
「土佐の出来人」と称され、土佐国だけではなく、四国統一まで勢力を拡大したのが「長宗我部元親」です。元親は吉良氏を継がせた弟の吉良親貞や、香宗我部氏を継がせた弟の香宗我部親泰を軍代としましたが、同じように重く用いられた譜代には久武親信(ひさたけ ちかなお)という家臣がいました。
長宗我部氏の家臣・久武親信とはどのような武将だったのでしょうか? 今回は久武親信についてお伝えしていきます。
長宗我部氏の家臣・久武親信とはどのような武将だったのでしょうか? 今回は久武親信についてお伝えしていきます。
久武氏とは
久武氏は、長宗我部氏が土佐国に入った頃からの譜代家臣と伝わっています。信濃秦氏の秦能俊は、平安時代に土佐国長岡郡宗我部郷の地頭となったことから長宗我部能俊を名乗っていますが、その際に仕えていたのが久武源三だったようです。以来、久武氏は中内氏や桑名氏と共に三家老として長宗我部氏を支えてきました。特に久武氏は筆頭家老に位置しています。久武親信は父親である久武昌源の跡を継いで当主となりましたが、それがいつの頃なのか、長宗我部国親の代なのか、元親の代なのかははっきりとわかっていません。
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元親の重臣として土佐統一に貢献
土佐国の豪族で長宗我部氏の長年の仇敵であった本山氏と、永禄3年(1560)に長浜の戦いで激突し勝利を収めますが、直後に当主の国親が病没。跡を継いだ元親は本山氏を攻め続け、久万城を攻略した際には親信にこの城を与えています。永禄12年(1569)には土佐国東部の豪族、安芸氏を滅ぼしていますが、この年に親信は高岡郡の佐川城城主となりました。
元親は、親信ら重臣たちを毎月6回ほど集めて会議を開き、その意見を聞いていたようです。筆頭家老の地位にいた親信も土佐国統一、四国統一に向けて発言したものと思われます。
天正3年(1575)には土佐国統一をかけて、元親はかつての主である一条氏と四万十川の戦いで激突しました。親信はこの戦いで、吉良親貞と共に先陣で活躍しています。元親は、親信は鉄砲の名手だと述べており、武勇にも優れていたようです。
『元親記』や『長元記』には、それぞれ以下のように記されています。
「武辺才覚、かたがた比類なきもの」
「武辺調略、諸人に勝れり」
親信が、誠実な人柄だけでなく、軍事面でも期待されていたことがうかがえますね。親信の活躍もあり、四万十川の戦いに勝利した元親は、ついに土佐国を統一することに成功したのです。
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伊予国攻めの軍代
伊予国攻めの軍代に任命される
土佐国を統一した元親は、隣国の阿波国、伊予国への侵攻を始めていきます。阿波国の海部城を陥落させ、一帯を制圧する際には、親信の娘を養女とし、桑野城主である東条関之兵衛に嫁がせています。関之兵衛は親信同様に武勇に優れており、元親は譜代同様の扱いをしたそうです。桑野城はその後、阿波国侵攻の拠点とされました。
阿波国の侵攻には、土佐国西部の軍代である香宗我部親泰が指揮を執りましたが、伊予国侵攻の指揮を執る土佐国東部の軍代・吉良親貞は天正5年(1577)に病没してしまいます。
病没した吉良親貞は、元親の右腕として大いに活躍した長宗我部勢力の中心人物であり、その代わりを務められるのは親信しかいないと元親は判断したのでしょう。親信は南伊予二郡の軍代に任命されました。
伊予国制圧前に戦死
伊予国の守護は代々、河野氏が務めてきましたが、中国地方の大勢力である毛利氏の援助なしでは成り立たないほどに没落していました。伊予国に侵攻していた土佐国の一条氏は、九州の大勢力である大友氏の助力を得ており、毛利勢と大友勢の争いで混乱状態になっていたのです。また、他の勢力としては、河野氏や毛利氏と結んで一条氏と争っていた西園寺氏もありました。天正7年(1579)、親信はこの西園寺氏の領地である宇和郡三間郷へ侵攻します。宇和郡岡本城が長宗我部側に内応してきたため、親信は岡本城に7000の兵を進めました。しかし、西園寺配下で戦上手の大森城城主・土居清良に迎撃され、討たれてしまいます。清良の兵は寡兵ながら皆、鉄砲の扱いに長けていたようです。
その後、天正12年(1584)に西園寺氏は元親に降伏することになりますが、親信が戦死したことで伊予国制圧が長引いたのは間違いないでしょう。
親信は岡本城へ進軍する直前、主君である元親に、「自分が討ち死にしても、家督を弟には継がせないように」と告げていたといいます。親信は、弟である久武親直の腹黒い性格を危惧していたのです。
元親は親直に久武氏の家督を継がせ、親直は伊予軍代として深田城攻略などで活躍して元親の期待に応えました。しかしその一方で元親の跡継ぎ問題などに関与、讒言によって重臣たちを粛清させるなど、長宗我部氏滅亡に大きな影響を与えてしまうのです。
おわりに
敵将の土居清良が強敵であること、弟が長宗我部氏に害をなすことを見抜いていた親信。この親信の戦死は元親にとって大きな痛手でした。親信と吉良親貞の両名が早死にしなければ、元親の四国統一は早まり、秀吉に簡単に降伏するようなこともなかったのではないでしょうか。【主な参考文献】
- 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)
- 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)
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