「鞆幕府」は室町幕府の亡霊か?権力なき将軍・足利義昭の最後の賭け
- 2025/11/17
天正元年(1573)、織田信長に敗れた足利義昭は、決して諦めることなく、「打倒信長」と「室町幕府再興」を悲願とした。しかし、義昭には軍事力がなかったため、中国地方の雄である毛利氏を頼り、「鞆幕府」と呼ばれる政権を築いたとされる。では、その「鞆幕府」とは、いかなる実態を持っていたのだろうか。
鞆に押し掛けた義昭
天正元年(1573)、足利義昭は信長と対立し、ついに戦いを挑んだ。結果は無残な敗北だったが、義昭はこれしきのことで怯む人物ではなかった。室町幕府の再興を悲願とするその執念は、尋常ならざるものがあった。紀伊国に逼塞していた義昭は、「天下再興」を名目に上杉謙信へ「打倒信長」を呼び掛け、さらに各地の大名間の紛争調停にも乗り出した。大名間の調停を通じて、政治的影響力を取り戻そうとしたのである。
そして天正四年(1574)二月、義昭は突如として行動を起こした。密かに義昭は紀伊国を出発すると、毛利氏の領国である備後国鞆津(広島県福山市)に到着したのである(『小早川家文書』など)。
鞆に入った義昭は、毛利氏に対し「信長が輝元に逆意を抱いているのは疑いない」と主張し、自らを擁立して信長と戦うよう説得した。天正四年(1576)五月、ついに毛利氏は義昭の受け入れを決断したのである。
毛利氏の庇護を受けた義昭は、「帰洛(=室町幕府再興)」に向けた援助を吉川元春・平賀氏・熊谷氏らに依頼した(『吉川家文書』)。こうして、後に「鞆幕府」と呼ばれる体制が成立したとされ、室町幕府は滅亡していないという根拠とされた。
反信長勢力の結集と解体
義昭を支えたのは毛利氏だけではなかった。当時、信長と敵対していた本願寺や各地の大名も同調した。遠国の武田氏や上杉氏をはじめ、畿内やその周辺では松永久秀、荒木村重、別所長治、波多野秀治といった面々である。彼らは信長に対して果敢に戦いを挑み、義昭・本願寺・毛利氏とともに「信長包囲網」を形成した。信長は多くの敵を抱えることとなり、次第に苦境へと追い込まれていったのである。当時の信長は、彼らに負ける可能性すらあったのである。
しかし、反信長勢力の成果は芳しくなかった。天正五年(1577)十月、松永久秀は大和・信貴山城(奈良県平群町)を攻撃され、自害して果てた。天正七年(1579)六月には、波多野秀治が丹波・八上城(兵庫県篠山市)で明智光秀に敗北。さらに同年十月、荒木村重の摂津・有岡城(同伊丹市)が落城し、村重は毛利氏のもとへ逃れたのである。
播磨・三木城(兵庫県三木市)主の別所長治も長期の籠城戦を戦い抜いたが、天正八年(1580)一月に降伏。その結果、本願寺も抵抗を断念し、同年閏三月に信長と和議を結んだ。こうして「信長包囲網」は次第に瓦解し、最終的に残ったのは義昭・毛利氏・上杉氏らにすぎなかった。
「鞆幕府」の構成
次に、鞆幕府の実態を確認しよう。天正四年(1576)、義昭は毛利輝元に「副将軍」の地位を与えたとされる。一見すると破格の待遇だが、「副将軍」という官職自体が聞き慣れない。義昭が輝元の歓心を買うため、設けた名目だった可能性もある。そもそも輝元を副将軍に任じたことを示す史料は、成立から六年後の回顧談的な記録に過ぎず、過大評価は禁物である。それ以前に、副将軍の存在を裏付ける同時代史料は確認されていないので、その実態は疑わしいと考えるべきだろう。
義昭は鞆に御所を構え、幕府体制を維持し、多くの奉行衆・奉公衆を擁していた。まさしく「室町幕府の再現」といえる構えであった。輝元以外の構成員には、京都時代の幕府奉行人・奉公衆、毛利家臣団、さらには他国大名らが名を連ねていた。
毛利氏側では、輝元を筆頭に吉川元春・小早川隆景らが鞆幕府を支える中核を担った。さらに三沢氏・山内氏・熊谷氏らの毛利家臣も加わった。注目すべきは、これら毛利家臣の多くが義昭から毛氈鞍覆(鞍を覆う毛氈)や白傘袋(傘の先を覆う袋)の使用を許されたことである。これを栄典授与という。
次に、もっと詳しく鞆幕府をどう評価すべきか、検討することにしよう。
栄典授与の裏事情
毛氈鞍覆や白傘袋の使用は、本来、守護や御供衆クラスの武士にのみ許される特権であった。守護配下の被官がこれを許されることは極めて稀であり、許可を得た者は守護と同格とみなされた。逆に言えば、守護配下の被官は喉から手が出るほど望んだはずだ。つまり、毛氈鞍覆や白傘袋の使用は毛利氏の家臣が許されるようなものではなかったのである。義昭は彼らの歓心を得るために、この特権を授与したと考えられる。
義昭の奉公衆には、武田信景、六角義尭、北畠具親など、あまり知られていない大名も名を連ねていた。しかし彼らは、かつて信長に敗れ逼塞していた武将である。また、美作国人の草苅氏も奉公衆として加わったが、もともとその地位に就けるような家柄ではなかった。
結局のところ、鞆幕府の中核は毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の三人だったとみて間違いない。この三人を除いては、烏合の衆というのは酷であろうか?
まとめ――ハリボテだった「鞆幕府」
鞆幕府に組み込まれた人々は、奉公衆という名目に魅了されて従った地方領主や、「信長憎し」で集まった落ちぶれた大名たちであった。中には名も聞き慣れぬ人物も多い。幕臣の数も、京都にあった頃の室町幕府に比べると著しく減少していた。鞆幕府と称してはいるものの、実態は寄せ集めの集団に過ぎず、室町幕府と比べればお粗末な体制であったといえる。
すなわち、鞆幕府は「ハリボテ」のような存在であり、義昭には実質的な権力がなかった。全ては毛利氏の支援に依存していたのである。形式的には「幕府」と称し得たとしても、その実態を過大評価することはできない。現代の歴史研究においても、鞆幕府に批判的な評価が与えられることも珍しくない。
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この記事を書いた人
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...
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